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侠客と役者の名が刻まれた被官稲荷神社~かみほとけ巡り~

浅草神社の本殿向かって右手奥に稲荷神社がある。被官ひかん稲荷神社という。本殿は一間社流造、杉皮葺。ちょっとした岩の上に鎮座する小さな社殿ですが、覆屋に覆われている。この覆屋は大正期の建築らしい。

被官稲荷神社

社頭の案内版によると、
安政元年(1854)新門しんもん辰五郎たつごろうの妻女が重病で床に伏したとき、伏見稲荷に祈願。その効果あり病気回復。そこで翌二年、伏見稲荷を勧請してここに神社を創建。名を被官稲荷神社とした。「被官」と名付けた理由は不詳だが、「出世」と解せばよいと記されている。

ただし、Wikipediaによると「被官」には「上級官庁に付属する下級官庁」「下級官庁に付属する官吏」「上級武士に隷属する武士」「地主に付属する身分の低い百姓」などといった「隷属」あるいは「付属」といった意味があるようだ。
そうなると、この稲荷神社は浅草神社の末社もしくは付属という関係から「被官」と名付けられた可能性もある。そうなると「出世」というニュアンスが薄れてしまうが、お気になさらずに。

さてこの新門辰五郎という人物ですが、江戸末期から明治にかけての侠客であります。新門とはいまはないが浅草寺にあった西門で、輪王寺宮が浅草寺伝法院に隠居した際、この新門の番を命じられたことから新門辰五郎と称するようになった。

徳川慶喜に仕えるようになり、慶喜上洛にも京大阪へ従っている。御一新で徳川家が駿府へ移ることになったときも、新門辰五郎も駿府へ移り住んだ。ここで清水の次郎長とも知り合ったと伝えられている。のち江戸にもどり、明治八年(1875)に亡くなっている。

江戸の町火消で侠客でもあった新門辰五郎が江戸から駿府へ慶喜とともに移ったのには、薩摩や長州がいい気になっている江戸に嫌気がさしたからかもしれない。江戸っ子は将軍さまのおひざ元でイキやイナセの美学に酔っていたところ、なに言ってるんだかわからない連中がデカい面して歩くご時世になったのだから、幻滅しても不思議ではない。

江戸っ子は明治時代が好きじゃない。いまだに江戸っ子であって、東京っ子ではない。

さて、被官稲荷神社のキツネの台座に歌舞伎役者の名前を見つけた。いづれも大正六年八月建設とある。1917年のことである。

向かって左手のキツネの台座には、中村歌六と中村米吉。米吉の脇に中村勘三郎と小さくあるので、米吉が勘三郎を襲名するのだろうと察せられる。
向かって右手のキツネの台座には、中村吉右エ門、中村時蔵とある。どちらも何代目の文字が崩れて読めない。

大正六年当時中村米吉三代目だったのは、十七代目中村勘三郎である。現在の中村勘九郎、中村七之助の祖父にあたる。映画やドラマにも出ていた。覚えているのは豊田四郎監督の「四谷怪談」、テレビは土曜ワイド劇場で戸板康二の推理小説「名探偵中村雅楽」を演じていた。

台座の歌六はこの十七代目勘三郎の父である三代目中村歌六ということになる。大正八年に没している。
台座の中村吉右衛門は初代中村吉右衛門。三代目中村歌六の長男。十七代目勘三郎の長兄にあたる。残る台座の時蔵もまた三代目歌六の次男である三代目中村時蔵。
つまり父である歌六と吉右衛門、時蔵、米吉の兄弟の名が刻まれている。

歌舞伎役者は名が変わるから調べないとよくわからない。勘三郎と言ってもいまの人なら十八代目を思い浮かべるだろうけれど、もう少し古い人なら十七代目を想起するかもしれない。

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