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日本史人物伝 No.267~270

No.267 西依成斎

1702(元禄15)閏8月12日~1797(寛政9)閏7月4日

読み:にしより・せいさい

姓:西依(にしより)

諱(いみな):周行(ちかゆき)

通称:儀兵衛(ぎへえ)

字(あざな):潭明(たんめい)

号:成斎(せいさい)

性別:男

出身地:肥後国(ひご・のくに:今の熊本県)

江戸中期の儒学者。


No.268 西依墨山

1726(享保11)7月13日~1800(寛政12)1月11日

読み:にしより・ぼくざん

姓:西依(にしより)

諱:景翼(かげすけ)

通称:丹右衛門(たんえもん)

字:翼夫(よくふ)

号:墨山(ぼくざん)

性別:男

出身地:肥後国(ひご・のくに:今の熊本県)

江戸中期の儒学者。西依成斎の甥で、のちに養子。


No.269 小野鶴山

1701(元禄14)~1770(明和7)6月14日

読み:おの・かくざん

姓:小野(おの)

諱:道煕(みちひろ)

通称:平蔵(へいぞう)、忠市郎(ちゅういちろう)

号:鶴山(かくざん)

性別:男

出身地:豊後国(ぶんご・のくに:今の大分県)

江戸中期の儒学者。西依親子の師。


No.270 合原窓南

1663(寛文3)~1737(元文2)8月20日

読み:あいはら・そうなん

姓:合原(あいはら)「ごうはら」とも

諱:余脩(みなが?)

通称:権八(ごんぱち)、藤蔵(とうぞう)

号:窓南(そうなん)

性別:男

出身地:不明

江戸前期から中期の儒学者。


西依成斎の生涯

西依墨山(にしより・ぼくざん)の養父。

京都に出て、小野鶴山(おの・かくざん)の望楠軒(ぼうなんけん)で学び、鶴山が若狭(わかさ:今の福井県南部)の小浜藩(おばま・はん)に招かれたあと講主となる。

のち小浜藩の儒官となった。

著作に「論語講義(ろんごこうぎ)」「中庸師説(ちゅうようしせつ)」などがある。


西依墨山の生涯

西依成斎の甥で、のちに養子となる。

京都に出て、小野鶴山(おの・かくざん)の望楠軒(ぼうなんけん)で学び、若狭(わかさ:今の福井県南部)の小浜藩(おばま・はん)に仕える。

藩校、順造館(じゅんぞうかん)の創設に尽力し、初代教授となった。

著作に「講学日知録(こうがくにっちろく)」「墨山文集(ぼくざんぶんしゅう)」などがある。


小野鶴山の生涯

幼くして、合原窓南(あいはら・そうなん)の門弟となる。

また、京都で若林強斎(わかばやし・きょうさい)に学ぶ。

強斎没後、娘婿となり、その望楠軒書院で教授した。

のち若狭(わかさ:今の福井県南部)の小浜藩(おばま・はん)に仕えた。

著作に「孟子講義(もうしこうぎ)」などがある。


合原窓南の生涯

出家したが、のちに還俗(げんぞく)して、浅見絅斎(あさみ・けいさい)に学ぶ。

なお、還俗とは、出家をやめて、俗人に戻ることである。

筑後(ちくご:今の福岡県)の久留米藩(くるめ・はん)に仕えて儒官となり、晩年は侍講(じこう)となった。

侍講とは、君主に学問を進講する学者のことである。

著作に「四書資講(ししょしこう)」「初学筮要(しょがくぜいよう)」などがある。


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