見出し画像

江戸の役所から その3 最終回

1841(天保12)から始められた天保の改革で、指導的立場であった、老中の水野忠邦(みずの・ただくに)は、幕府の諸役所に旧弊を破り、改革を断行するように命じた。

しかし、ほとんどの役所が、これを無視した。

改革や改変は、よほどの合理性がない限り、上からの命令だけでは、なかなか進まない。

いつの時代も、強い抵抗を受けるのである。

結局、改革で辣腕を振るった水野忠邦は、責任を問われ、1843(天保14)閏9月に失脚した。

ところが、約9か月後の1844(天保15)6月、老中に返り咲く。

これには「肝をつぶさざる人なし」と言われたほど、人々が驚愕した。

水野を失脚させた、いわゆる水野を裏切った役人たちは、どんな報復があるのかと戦々恐々としていたと思われる。

しかし、せっかく再登板したというのに、十二代将軍:徳川家慶(とくがわ・いえよし)は、重要な任務を与えなかったようである。

そのころ、目付(めつけ)を務めていた久須美祐雋(くすみ・すけとし)という人物が、江戸城中の水野忠邦の様子を観察していた。

それによると、幕府の財政担当にもならず、当時もっとも重要な課題であった、江戸城本丸の再建を担当するでもなかった。

ただ、江戸城に出勤するだけで、役人が仕事の打ち合わせや相談に来るわけでもなく「木偶人(でくにん)同様」だったという。

木偶人とは、木偶坊(でくのぼう)とも呼ばれる、いわゆる木彫りの人形ということである。

老中という役職に就いているだけで、何の働きもしないので「木偶人」と見られたのである。

水野は、御用部屋と呼ばれた江戸城本丸の老中執務室で、手持ち無沙汰に、じっと時が過ぎるのを待っているだけだったらしい。

かつての権力者だけに、悲哀も感じる。

このような状況だったためか、7月からは、暑気あたりによる頭痛と下痢、腰痛、風邪による発熱などの理由で、しばしば欠勤するようになった。

12月からは「癪(しゃく」という理由で欠勤し、結局、翌年の2月に辞職するまで、二度と出勤することはなかった。

ちなみに「癪」とは、江戸時代に休む理由によく使われる病名で、腹痛というよりは、政治的、便宜的な病気であることが多い。

同じ人形でも、人形遣いの部下が上手に操ってくれれば名奉行や名宰相といわれるが、誰にも相手にしてもらず、操ってくれなければ、ただの木偶に成り下がるのであった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?