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日本史人物伝 No.262~266

No.262 岡田寒泉

1740(元文5)11月4日~1816(文化13)8月9日

読み:おかだ・かんせん

姓:岡田(おかだ)

諱(いみな):善里(よしさと)→恕(はかる)

通称:又次郎(またじろう)、清助(せいすけ)、式部(しきぶ)

字(あざな):中卿(ちゅうきょう)、子強(しきょう)

号:寒泉(かんせん)、泰斎(たいさい)

性別:男

出身地:江戸

江戸後期の儒学者。寛政の三博士の一人に数えられている。


No.263 岡田善富

?~1740(元文5)11月4日以降

読み:おかだ・よしとみ

姓:岡田(おかだ)

諱:善富(よしとみ)

通称:不明

性別:男

出身地:江戸

江戸中期の旗本。岡田寒泉の父。


No.264 村士淡斎

1700(元禄13)~1772(明和9)8月5日

読み:すぐり・たんさい

姓:村士(すぐり) 「むらじ」とも

諱:宗恒(むねつね)

通称:弥十郎(やじゅうろう)、弥左衛門(やざえもん)

号:淡斎(たんさい)、不厭庵(ふえんあん)

性別:男

出身地:江戸

江戸中期の儒学者。


No.265 村士玉水

1729(享保14)~1776(安永5)1月4日

読み:すぐり・ぎょくすい

姓:村士(すぐり) 「むらじ」とも

諱:宗章(むねあき)

通称:行蔵(こうぞう)

号:玉水(ぎょくすい)、一斎(いっさい)

性別:男

出身地:江戸

江戸中期の儒学者。村士淡斎の子。


No.266 原田平入

1688(貞享5、元禄元)~1758(宝暦8)

読み:はらだ・へいにゅう

姓:原田(はらだ)

諱:不明

通称:不明

号:平入(へいにゅう)

性別:男

出身地:不明

石州流(せきしゅうりゅう)鎮信派(ちんしんは)の茶人。


岡田寒泉の生涯

西丸書院番で1200石を給されていた岡田善富(おかだ・よしとみ)の次男として、江戸に生まれる。

兵学を村士淡斎(すぐり・たんさい)に、山崎闇斎(やまざき・あんさい)の学問体系を淡斎の子である、村士玉水(すぐり・ぎょくすい)に学ぶ。

1789(寛政元)柴野栗山(しばの・りつざん)に続いて、老中の松平定信(まつだいら・さだのぶ)の登用を請け、小普請から幕府儒官となる。

1790(寛政2)寛政異学の禁が出ると、栗山とともに大学頭・林錦峯(はやし・きんぽう)を助け、聖堂学問の取り締まり、朱子学(しゅしがく)の振興に努めた。

栗山・寒泉に尾藤二洲(びとう・じしゅう)を加え「寛政の三博士」と称される。

定信が退いた後、1794(寛政6)には常陸の代官職に転じる。

寒泉が治めた地区は、現在のつくばみらい市を始め7郡182ヶ村に及ぶ。

風俗の粛正や勤倹貯蓄を奨励した。

当時、全国の農村で行われていた間引きを禁じ、育児を奨めるため、幕府に願い出て産児養育料1000両の支給を受けた。

休耕田を耕し、開墾に努め、飢饉に備えて米を備蓄させ、厳正に年貢を取り立てることも怠らなかったという。

寒泉は生神様として崇められ、1810(文化7)には筑波郡谷和原村下小目の小貝川堤防下に、村民の手によって生祠が建てられた。

1812(文化9)73歳で代官職を辞し、寄合となる。

幕府からの拝領地(揚場町)に戻り、家塾「寒泉精舎(かんせんせいしゃ)」を開き、亡くなる前年まで講義をおこなった。

病を得たために自ら塾を閉じ、建物を壊して更地にしたあと、幕府に返上したという。

なお、息子の真澄(ますみ)は、父の跡を継がず、国学者として著作を遺している。

1916(大正5)従四位を追贈された。


村士親子

村士淡斎は江戸出身の儒学者で、三宅尚斎(みやけ・しょうさい)に師事し、のちに備後(びんご:今の広島県東部)の福山藩(ふくやま・はん)お抱えの儒者となった。

また、茶事を原田平入(はらだ・へいにゅう)に学び、不厭庵(ふえんあん)とも号した。

著作に「茶杓書(ちゃしゃくしょ)」「淡斎遺文集(たんさいいぶんしゅう)」がある。

息子の玉水も父の後を継ぎ、儒学者となった。

父と同じく福山藩の儒者になったともいわれる。

その後、江戸にて私塾を開き、このとき、岡田寒泉が門人となっている。

他の門人では、服部栗斎(はっとり・りっさい)がいる。

「一斎先生雅言(いっさいせんせいがげん)」「玉水文草(ぎょくすいぶんそう)」などの著作が残っている。

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