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日本史人物伝 No.201~203

No.201 村上義礼

1747(延享4)~1798(寛政10)10月27日(西暦:12月5日)

読み:むらかみ・よしあや

姓:村上(むらかみ)

諱(いみな):義礼(よしあや)

通称:大学(だいがく)

官位:従五位下、肥後守(ひご・のかみ)

性別:男

出身地:江戸

江戸中期の旗本。江戸南町奉行。


No.202 佐野政言

1757(宝暦7)~1784(天明4)4月3日(西暦:5月21日)

読み:さの・まさこと

姓:佐野(さの)

諱:政言(まさこと)

通称:善左衛門(ぜんざえもん)

性別:男

出身地:江戸

江戸中期の旗本。


No.203 佐野政豊

?~1784(天明4)4月3日以降

姓:佐野(さの)

諱:政豊(まさとよ)

通称:伝右衛門(でんえもん)→善左衛門

性別:男

出身地:江戸

江戸中期の旗本。佐野政言の父。


村上義礼の生涯

1785(天明5)書院番となる。

義礼の父は、御三卿(ごさんきょう)の清水家(しみず・け)の家老だったが、当主の馬の買い下げの件で、不調法有りとしてお役御免となっていた。

義礼は、このことで苛めを受けていたようである。

しかし、これに堪え、のちに使番となった。

1792(寛政4)11月、西ノ丸目付であった時、通商を求めてきた、ロシアの使節ラクスマンと交渉する宣諭使(せんゆし)に、目付の石川忠房(いしかわ・ただふさ)とともに選ばれる。

宣諭使とは、新設された役職で、ロシアに対し、交易は長崎に限ると理解させ、平穏に帰国させることを役目としていた。

交渉のため、蝦夷地の松前に派遣される。

そして、翌年6月27日の会見で、通商交渉のための長崎入港を許可する信牌(しんぱい)を与えた。

1794(寛政6)3月に目付となり、1796(寛政8)9月には、江戸南町奉行となった。

1798(寛政10)在任中に没す。

彼の妹は、1784(天明4)に、江戸城中で若年寄の田沼意知(たぬま・おきとも)を刺殺した、佐野政言(さの・まさこと)の室であった。


佐野政言の生涯

佐野政豊の子で、10人姉弟の末子で一人息子であった。

江戸南町奉行を務めた村上義礼は義兄(政言の妻の兄)。

佐野善左衛門家は、三河以来、徳川家に仕えた譜代である。

五代将軍:徳川綱吉(とくがわ・つなよし)治世の1698(元禄11)より番町に屋敷を構えた。

政言は6代目にあたる。

父の政豊も大番や西丸、本丸の新番を務め、1773(安永2)に致仕し、代わって政言が、8月22日に17歳で家督500石を相続した。

1777(安永6)大番士、翌1778(安永6)新番士となる。

1783(天明3)冬、十代将軍:徳川家治(とくがわ・いえはる)の鷹狩りに、供弓として選ばれる名誉を受け、雁1羽を射ち取るも、褒賞にはあずかれなかった。

1784(天明4)3月24日、江戸城中にて、若年寄の田沼意知(たぬま・おきとも)に向かって走りながら「覚えがあろう」と3度叫び、一竿子忠綱(いっかんし・ただつな)作の大脇差で殿中刃傷に及んだ。

その8日後に意知が絶命すると、佐野政言には同4月3日に切腹が命じられ、揚げ屋敷で自害して果てた。

数え28歳であった。

葬儀は4月5日に行われたが、両親など遺族は謹慎を申し付けられたため出席できなかった。

佐野家も改易となり、遺産は父に譲ることが認められた。

唯一の男子である政言には子がなかったこともあり、佐野家は絶えたが、幕末になって再興されている。

犯行の動機は、諸説紛々としている。

意知と、その父の意次(おきつぐ)が、先祖粉飾のために藤姓足利氏流佐野家の系図を借りたまま、返さなかったという説では、更に付随する説がある。

政言が、自家の系図に手を加えて、系図の明らかでない田沼家が佐野家の庶流であるように改竄を申し出て恩を売ろうとしたが、出自に興味のない意次は、佐野の申し出を政務多忙もあって放置したため、政言は、系図改竄まで申し出た自分の好意を無にしたと逆恨みしたというのである。

また、下野国の佐野家の領地にある、佐野大明神を意知の家来が横領し田沼大明神にしたという説もある。

更には、田沼家に賄賂を送ったが、一向に昇進出来なかったため、という説など、様々な憶測が飛び交ったが、幕府は乱心として処理した。

田沼と、その倹約令を嫌う風潮があった市中では、跡継ぎを斬ったことが評価され、世人からは「世直し大明神」と呼ばれて崇められた。

高止まりだった米の相場は、偶然であるが、刑の翌日から下落し、財政は逼迫。

やがて田沼意次も失脚した。

墓所は台東区浅草の徳本寺(とくほんじ)。

法名は元良印釈以貞。


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