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孫との再会

江戸後期の物書き、戯作者(げさくしゃ)の大田南畝(おおた・なんぽ)。

彼は幕府勘定所役人を務める、御家人でもあった。

1802(享和2)4月、約一年に渡った大坂銅座の勤務を終え、江戸に戻った。

江戸への道は中山道(なかせんどう)を使ったので、板橋宿(いたばし・じゅく:板橋区)の手前で、一族や知人の出迎えを受けた。

その時のことを「うれしなどは、よのつねなり。おのおの一年、恙(つつが)なかりしよろこびをのべつつ、板橋の駅につく。橋をわたりて、左(さ)なる酒家(しゅか)にいこひて、もろびと、酒、くみかはしつ」と記している。

無事に江戸に戻った喜びを素直に語り、板橋宿の石神井川(しゃくじいがわ)にかかる板橋を渡ったところの旅籠(はたご)や料亭に入って、人々と酒を酌み交わしたというのである。

その後、南畝は、板橋を出て、庚申塚(こうしんづか)から池袋村(豊島区)を過ぎ、護国寺(ごこくじ)の門前で休憩した。

そこには、倅(せがれ)の嫁に抱かれた、大坂出張中に生まれた孫の姿があった。

また、近くに住む、孫娘二人も出迎えに来ていた。

その時の心境を、南畝はこう書き記している。

「わづかひととせのほど、とはいえど、たけ高く、生ひたちたる、心地す」

幸せに浸っている南畝の微笑ましい様子から、いつの世も変わらない、家族の情愛が伝わってくるのである。

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