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楽譜売りの老人~大人のための新作童話~

2012年12月24日 クリスマスイヴの夜  菊池嘉雄78歳

 

   昔 、あるところに年老いた作曲家がいました。この老人は作曲した楽譜を、街角に立ったり、家々を訪問したりして、人々に楽譜を買ってもらって、細々(ほそぼそ)と暮らしていました。老人は一人暮らしでした。老人は全然知られていない無名の作曲家でした。無名の作曲家でも世の中が景気の良いときは買ってくれる人もいて、何とかなっていました。買ってくれる人の中には「もしかして、あんたの曲が有名になったら、この楽譜は高く売れるからな」などという人もいて、そう言われると老作曲家は嬉しいような淋しいような複雑な気持ちになるのでした。曲がいいから買ってくれるのではなく、将来高く売れるかもしれないから買うのだと言われると作曲家としては淋しかったのです。でも、お金を頂かないと暮らせないので、丁寧にお礼を言って楽譜を渡しお金を貰うのでした。
 その年は大変な不景気でした。街角に立っていても、家々を訪問しても、楽譜を買ってくれる人は誰もいませんでした。春が過ぎ、夏が過ぎ、秋も過ぎ、冬になりましたが、楽譜は全然売れませんでした。老人は食べることもできず、水だけ飲んで過ごす日が続くようになりました。ついに12月24日クリスマスイヴの日になりました。街にはジングルベルなどの賑やかな音楽が流れ、、買い物をする幸せそうな人々がいっぱいでしたが、老人の楽譜を買ってくれる人はいませんでした。老人はクリスマスイヴを過ごす食事代をなんとか稼ぎたいと足を棒にして家々を訪ね歩きましたが、どの家もクリスマスの準備に忙しく、買ってくれる家はありませんでした。老人は何十軒も歩き続けて、ついに夜になってしまいました。トボトボと家に帰る途中、疲れ果てて歩けなくなり、道路に座り込んでしまいました。雪が降ってきたので、道路の脇のひとの家の軒下に身を寄せてうずくまっていました。そしたらその家からご馳走の匂いが流れてきました。見上げると窓にはあかあかと明かりがついて、子どもの声や大人の声が楽しそうにきこえて来ました。「クリスマスパーティーをやっているのだな」と老人は思いました。老人は一人暮らしなので家に帰っても誰もいないし、クリスマスイヴを祝う食べ物もありません。それで、そこの家族がご馳走を食べる様子を想像し、楽しい会話を想像して、自分もそこに居るつもりなって楽しみました。寒さは次第に強くなり、雪はさらに降ってきました。このままでは凍え死んでしまうので、帰らなければならないと考え、立ち上がりかけた時でした。その家の窓から歌声がきこえてきたのです。耳をすますとそれは老人が作曲した曲でした。「ああ、私の曲だ」と老人は嬉しくなり耳を傾けました。一曲が終わりました。雪がしんしんと降っています。「帰らなければ・・」と老人は思いましたが「また歌うのではないか・・」という期待で立ち去りかねました。雪はさらに降り続きます。しばらく待っていると、なんと老人が作った長い曲を歌い出したではありませんか。「なんという嬉しさ!。なんという感激!、有り難いことだ!」と老人はつぶやき、じっと耳をすまし続けました。きき耳を立てているうちにもうろうとしてきて、よくきこえなくなってきました。寒さのためにもうろうとなってきたのです。老人はもっとはっきりききたくて、売り物の楽譜を取り出しました。命と同じくらい大切な楽譜なのですが、どうせ売れないのだし、自分の曲をもっとはっきり聴くには楽譜を燃やして暖をとろうと考えたのです。楽譜一枚に火をつけました。赤い炎がめらめらと燃えあがりました。炎に手をかざして、窓からもれてくる歌声に耳を傾けました。少しだけ、はっきりきこえました。一枚目が燃えつきました。二枚目に火をつけ耳を澄ましました。歌声は続いていました。三枚目に火をつけました。四枚、五枚と燃やし続けて、老作曲家は自分の曲に聴き入りました。聴いているうち、またもうろうとしてきました。寒さはいっそう厳しく、楽譜を燃やしたぐらいでは体が温まらないのです。それでも耳をすまし続けました。雪がしんしんと降り続いています。その雪のカーテンの中から死んだはずの老人の妻が現れました。「あなた」と妻が呼んだように老人にきこえました。「おお、来てくれたか!。きいてくれ、ここの家族が俺の曲を歌っているんだ。嬉しいじゃないか」と老人が言いました。妻は耳をすまし「あらほんとだ。よかったね、あなた」と言って、一緒に聴き入りました。
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 夜が明けてクリスマスの日となりました。雪はやんで朝日が街に降り注いでいました。道路脇の家の、軒下の壁に寄りかかった雪人形が一つありました。近寄ってよく見るとそれは作曲家の老人でした。雪がかかって雪だるまみたいになっていたのです。老人はもう息をしていませんでした。死んでしまったのです。道路の白い雪の上には、黒い楽譜の燃えかすが風で飛んで、点々と散らばっていました。老人の顔を見ると、とても幸せそうな顔をしていました。
 終わり

 作者からのコメント
 読み終えた読者は既にお気づきと思いますが、このお話はアンデルセンの有名な童話「マッチ売りの少女」を作り替えたものです。少女を老人に、マッチを楽譜に置き換えました。できれば「マッチ売りの少女」と読み比べて頂くと、作り替えの面白さがいっそう味わえるかと思います。作り替えは面白くても、話の内容は、どちらも悲しく切ないお話です。アンデルセンがこの童話を発表したのは1848年の19世紀なかばですが、一生懸命生きても悲しく切ない結末にしかならない人生というものが、いつの世にも、どこの国にもあるのだと思います。
 小津安二郎が映画「東京物語」を世に出したのが1953年です。老夫婦が成人した子供たちのところを巡って、結局は元の住まいに戻り、まもなく一方が死んで独居老人になるというお話です。それから60年たって、山田洋次映画監督が、時代を東日本震災後に設定し「東京家族」として、今年2013年1月に再び世に出しましたが、なぜでしょうか。「東京物語」に描かれた状況が、ますますそのとおりになってきたからだと思います。
 今の日本はものすごい勢いで独り暮らしの高齢化社会に向かっています。子どもが成人し家庭を持つと、親と離れて暮らすようになります。結果として夫婦だけの親だけ家庭となり、一方が死ねば、または離婚すれば独居老人となります。高齢者だけではありません、40歳代・50歳代の独り暮らしも増えています。この人たちもやがて高齢者になります。孤独死などという言葉が使われ、その対策などが社会問題となっています。しかし、かけ声だけで、きめこまかな支援や救いにはなっていません。悲しく切ない話が実際にそこかしこにみられます。かくいう私も妻に先立たれた独居老人で、年金を使って老人ホームで暮らしています。そして独学の無名の作曲家でもあります。
 名曲「おおスザンナ」の作曲者フォスターの伝記に、独学で作曲を学んだ彼が通りを歩いていて知らない家から彼の曲の歌声をきいて喜んだ話や、晩年は独り暮らしで食うや食わずの貧窮のうちに死んだ話があったことを思い出し、マッチ売りの少女と組み合わせてみました。私自身も重ねたことはもちろんです。とはいっても、私は楽譜を売るなどしたことはありません。
 もし日本経済が破綻し年金が停止すれば、この童話は現実味を帯びてくることでしょう。

一生懸命生きても悲しく切ない人生   2013年3月5日


「大人のための童話 楽譜売りの老人」の作者からのコメントに「一生懸命生きても悲しく切ない結末にしかならない人生というものが、そこかしこにある」と書きましたが、この度それを裏付けるようなことが報道されました。
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 2013年3月2日、北海道東部は大変な猛吹雪でした。ホタテ養殖業岡田幹男(53歳)は、軽トラックで一人娘の小学校3年生夏音なつね(9歳) を児童館に迎えに行った帰り道で雪のため動けなくなりました。「車の中にいても燃料がなくなるから、親戚の家まで歩いて泊まる」と別な親戚にケイタイで電話し、連絡が途絶えたそうです。翌朝、道路脇にある倉庫の前の雪が盛り上がった箇所で、女の子のすすり泣く声が聞こえたことから発見されたのですが、父親は娘に覆い被さるようにして、しっかりと抱きかかえてうずくまり、全身に雪をかぶって息絶えていたそうです。娘は助かりました。服装は娘はスキーウェア、父は普段着、ある報道によれば、父のジャンバーも娘に着せて抱いていたようです。
 岡田は一昨年妻に先立たれ、娘との二人暮らしで、仲の良い親子だったそうです。男手ひとつだから、児童館に預かっていたのでしょう。そこから連れて帰る途中の災難でした。…と事故の顛末を淡々と記せば、それだけのことです。でも、父親は意識が次第に薄れていくとき何を思っただろうとか、その父親に娘は何を言っただろうと想像を巡らせ、更に明日の雛祭りのためケーキを予約していたなどと聞いて、私は声をあげて泣きました。なにしろ高齢期泣き虫症候群で涙もろくなっているし、長く生きただけに、父親の苦労も察せられ、母親を亡くした上に更に父親にも死なれたこの娘のこれから先を考えると、不憫で不憫で涙が溢れてくるのです。
 報道によれば、岡田は手堅い事業経営で実直な人だったようです。娘との二人暮らしなだけに、どれほど娘を大切に思っていたことか。娘のためにもせっせと働いたことでしょう。一生懸命生きていた人だったろうと思います。この事例こそ私が言う「一生懸命生きても悲しく切ない結末の人生」のひとつではないでしょうか。
 「どうしてこんな目に遭わなければならないのか?」。私は隣の町へ車で行くときは、サンダルをやめて靴を履き、防寒着を車につけます。歩いて帰らなければならい事態に備えてのことです。ところが、安全安心の人工環境に育った孫達は、薄着にサンダル履きで車に乗り込もうとします。しかし、私も小学校3年生の孫を毎日、児童館に迎えにいきますが、その時はサンダル履きで普段着のままです。岡田もその感覚だったのでしょう。そして天候が急変する「の字型低気圧」による視界ゼロの猛吹雪の急襲です。だから、岡田の不備を責めることはできません。なら、どうしてなのでしょう?。「因果応報」なのでしょうか?。「運が悪かった」のでしょうか?。「先祖の障り」なのでしょうか?。いえいえ、原因を探すような問題などではなく「一生懸命生きたって悲しく切ない結末にしかならない人生というものが、いつの世もどこにもある、ただそれだけのこと」なのだと思います。だからどうしょうもないのです。どうにもできないのです。だから泣けるのです。泣くしかないのです。そうして演歌がうまれ、歌曲がうまれます。
 それにしても、この娘のこれから先ですが、親戚に引き取られるのか?、養護施設に引き取られるのか?。これから成長するに当たってどんな人生観を築くのでしょうか。娘が抱く「自分の命と引き替えて私の命を守ってくれた父」の思い出は、きっとこの子を良い方向に導くだろうと思います。そう思えることが、悲しく切ない気持ちの中で、唯一、救いとなります。 合掌


                     
  
    























































































































































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