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ジャズトランペッターの日野皓正でさえが!

きくよしエッセイ 2004年文化の日、記念号 菊池嘉雄(70歳)

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 2004年11月3日文化の日、日野皓正ひのてるまさジャズコンサートを聴いた。コンサートのフィナーレの挨拶で日野が語ったことが私の耳をとらえた。それをぜひ文字にしてみたいと思った。

 日野皓正を知ったのは今から35年ぐらい前、私が35歳頃であった。芸能関係の仕事をしている友人に連れられて新宿のライブハウスに行った。そこで日野皓正のトランペットを聴いた。小さなライブハウスで床にべた座りして手を伸ばせば日野に触れそうな近さで聴いた。コンサートが終わってから友人の誘いで日野と私の三人であちらこちら飲んで歩いた。その頃、学校で吹奏楽を教えていたので「トランペットはどこの製品が良いか?」と日野に聞いた。「ヤマハでいいんじゃないですか」と日野が答えた。後でヤマハの広告誌を見たら日野の写真が載っていた。懐かしい思い出である。


 11月3日の演奏のフィナーレで語ったことは単なる挨拶ではなくてメッセージだった。その主な点は次の通り。

① 音楽が好きな人は戦争が嫌いで平和を好む。だから音楽を愛しましょう。
② 高校生が聴衆の会場で、演奏中に、女の子が椅子の上に足を投げ出したり、携帯電話やったり、後ろの方で追っかけっこをしていたりする。
③ 軍隊生活とか戸塚ヨットスクール生活みたいな厳しい訓練をしてから高校にあげたらいい。
④ 人間は先輩に敬意を払ったり親を尊敬したりするような人間でなくちゃいけない。
⑤ アメリカは差別ばっかりだ。

 私はこのメッセージを聞いて衝撃を受けた。それを書こう。

 ①のメッセージは音楽家がよく口にすることで「ああ日野も同じか」という程度である。衝撃的なのは②からである。ジャズと言えばアメリカ、アメリカ音楽と言えばジャズである。そのジャズを生涯やり続けている日野皓正、そしてアメリカで暮らしている日野皓正が「アメリカは差別ばっかり」と不満げである。日野皓正ならそれこそ親米感が強く、アメリカ人化しているのではないかと思っていただけに驚きであった。ジャス音楽はクラシック音楽と違い自由性に富む演奏が面白い音楽である。誰かが演奏を始めるとそれにあわせてメンバーが自分の裁量で演奏する。だから作曲者もいなければ楽譜もない。銘々が楽器を使っておしゃべりをしているようなもので、演奏する度に違う音楽になる。ジャズは黒人が西洋楽器を手にして始めたのがルーツと言われるだけあって黒い人も白い人も黄色い人も一緒にグループを組んで演奏している。まさに自由と平等の国アメリカらしい印象を受ける。ところがそれをやっている日野の口から「アメリカは差別ばっかり」と出たのである。アメリカ庶民の中で暮らしている彼が語るのだからほんとうなのであろう。そして彼は90年頃からアジアの方を向くようになったらしい。

 ②は更に衝撃的であった。私が以前、エッセイ「タガが外れた日本~マナー問題を中心として~」で指摘したマナーの酷さに彼も見舞われたらしいのだ。そしてそれを彼が気にしたことが私には衝撃的なのだ。クラシックではお行儀が問題にされることはあるがジャズではない。アメリカ社会はお行儀には寛大な国でそこで演奏活動している日野が気にした、ということはアメリカよりも日本が酷いということだろう。そして更に衝撃的なのは③である。「もっと厳しく鍛えてから高校へあげろ」と語った。まるで日本のタカ派が語るようなことがアメリカに住む自由人の日野の口から語られたのだ。それだけ日本の青少年はオカシクなっているということだろう。そこが衝撃的なのである。

 ④の先輩や親を敬う精神は日本の伝統的な価値観である。それをアメリカに住むジャズ奏者が口にする。意外な感じとともに「やはりそうなんだよなー」と再認識の感を深くさせられた。

 彼はこうも言った「中学しか出てないから難しい言葉など分からないこともあった」。彼は中卒なるが故に「高校生ならもっとちゃんとしろよ」と日本の高校生たちに言いたいのではないか。

 彼は今62歳である。戦後、アメリカ文化に触発されて育つた世代としては私と同じ価値観の変遷をたどっているのかもしれない。60歳を過ぎて自分を振り返り、世界を見渡せば俺たちは何だったのか。何者なのか。どこへ向かおうとしているのか。そんな思いでアジアを見渡してみたりしているのではないのか。

 演奏終了後、楽屋に寄って日野皓正に会おうかと思ったがやめにした。宍戸錠で懲りたことがあるからである。錠は白石高校の演劇部で私の一学年上であった。演劇部にも所属していた私は高2の時、錠が主役で私が脇役、そして私が監督の演劇をやったことがある。だから映画俳優となった錠を映画館で見たときは涙が出るほど嬉しかった。それから50年ぐらいたち白石のある集まりに錠が来た。高校以来の対面となったが錠は私を完全に忘れていた。顔が分からなかったのではない、私と一緒に演劇をしたことが思い出せないのだ。日野皓正とはたった一晩飲んで歩いただけである。私を覚えているはずがない、そう思ってやめたのである。

 60歳を過ぎると同級生や旧友などとの再会の機会が多くなる。再会して嬉しい思いをすることもあるがガッカリすることもある。日野と直接会わなくとも、35年前に新宿の小さな会場で聴いた日野皓正を私の家のじき近くにあるホールで聴くことができたことは嬉しいことだった。今回は音楽よりも彼が語ったメッセージが強烈に印象に残った。が、彼は力説したのではない。飄々と冗談口調で語ったのである。だから私のように聴いた人はいないかもしれない。「なぜ彼はわざわざそのようなことを口にしたのか?」。私の人生と日野の人生はすごくかけ離れている、にもかかわらず、もしかしたら似たような思いや価値観を抱いているのかもしれない。とすればそれは、年のせいなのか?、「日本人としてのアイデンティティ」とか言うものなのか?  

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