教科書「を」教える授業は要らない。
「教科書」と聞いて、あなたはどんなイメージを思い浮かべるだろうか。……よい印象をもっている人は、きっと少ないはずだ(私見)。
「教科書通り」という言葉もある。例文としては、「教科書通りの発言だね」など。これも、あよいイメージで使われることは少ない。
それはなぜか。「決まったことを決まった通りに教える、教わる」というイメージが湧くからではないか?みんな、それにうんざりしているのだ。
『教科書をハックする』
成績、宿題、そして教科書。ハックシリーズを読むのは3冊目。
このハックシリーズでは、教育現場の様々な問題をハック(巧妙に改造し続ける)ための様々な知恵や実践が紹介されている。『教科書をハックする』はその名の通り、教科書の新しい在り方・使い方についてのヒントが満載だ。
教科書の長短
教科書には短所が多いと感じるが、個人的には長所もあると感じる。特に授業の導入。
基礎知識や導入に関しては教科書に頼るのがよい。知識がないとアウトプットにつなげられないのは当然で、基礎をどの単元でもまとめてくれているのはありがたい。
俳句の単元をやるにも、「季語や切れ字って?」という基礎知識を押さえるのがスタート。それが生徒全員の手元にあるという状態。よく考えられていると思う。
ただ、殆どの授業が教科書を使ったインプットで終わっているのが問題。教科書「を」教える授業になっている。教科書「で」学ぶ授業に転換が必要ではないか。
教科書の中にあるのは「ちゃんとした俳句」?
最近、俳句の単元を終えた。もちろん、俳句の基礎知識は教科書で学んだ。そして、アウトプットとして俳句の鑑賞文を書く活動を設定し、鑑賞文が書きやすい俳句を自分で選ぶように指示した。
市営図書館の司書さんに頼み、団体貸出で40冊の句集を借りた。そこから生徒は鑑賞文を書く俳句を選ぶ。
本書からの引用で、これがそのまま当てはまる。教科書の中にある俳句から選ぶのでは狭い。現代俳句や自由律俳句だってある。教科書の中がすべてではない。
そうしたら、「なんで『ちゃんとした俳句』で鑑賞文を書くように指導しなかったのか」と国語科の同僚に訊かれた。
「ちゃんとした俳句」って、芭蕉、一茶、啄木あたり?何をもって「ちゃんとした俳句」なのだろう。現代俳句はダメ?
普段の授業では寝ていて、「分かりません」が口癖で、考えなしだと思われている生徒。少なくとも、彼らは今回の授業で立派な文章を書いている。年度始めと比べて、文章力は確実に向上している。
鑑賞文は、「すずめの子 そこのけそこのけ お馬が通る」で書いた生徒もいれば、「ドラえもんの 青を探しに ゆきませんか」で書いた生徒もいる。
全員に「教科書にある芭蕉や一茶の俳句で、鑑賞文を書け!」と言っていたら、生徒はげんなりした顔になっていたはず。
生徒の興味・関心に合わせて、教科書の内外を行き来することは当然なのでは……。
教科書「で」学ぶ授業にしたい
生徒一人一人に合ったテキストが、教科書の外にはたくさんある。生徒が関心をもつテキストが、必ずしも「ちゃんとした」俳人の作品ではない場合も、往々にしてあることだろう。
ましてや、今やテキストがネット上に溢れかえっている時代。手元のスマートフォンで、様々な情報にアクセスできる。
GIGAスクール構想でタブレット端末が入ったのに、まだ教科書の中だけにこだわるのか?甚だ疑問。
教師の役目は、生徒にぴったりはまるテキストに出合わせることだと思う。そう考えれば、教科書の中だけにこだわる理由はないはず。
「教科書を常に必ず使用していなければ!」という枠を壊さなければ。脱・教科書絶対主義。
最近の悩み
余談だけど、「日本は作文がイベント化している」と本書の中にあった。確かに……読書と同じように、作文が日常に溶け込むにはどうすればよいのでしょう。
書けば書くほど生徒は成長することは今回で分かった。ただ「読む文化」はあっても「書く文化」がない。うーん。それが近頃の悩み。
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