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【エッセイ】キリスト教の贖罪(1600)

昨日(6/17)の相互フォロワーlionさんのnote記事が「許す。」というタイトルのものだった。

許す?

何の記事だろうか?

もしかして、キリスト教の贖罪をテーマにした記事だろうか?

そうでなくても誰か人を赦すことの大切さを問うた記事なのだろうか?

読む前に私の心は熱くなる。

私はクリスチャンでありながらとても不寛容な人間だ。

私に酷いことをした連中のことをずっと赦せない。私を果てしなく不快にさせる社会にはびこる悪。たとえば詐欺を働く人間やエセインフルエンサーのクズどもや炎上系の有名人のカスたちなど。大嫌いだし地獄に堕ちればいいと思っている。

そういった私の敵や社会のゴミどもを赦せるのだろうか?赦さなきゃいけないのだろうか?

赦さなきゃいけないのだ。

なぜならイエスがそう説いているからである。

主の祈りというものがある。文字通り、聖書の中でイエスが弟子たちにこのように祈るのだと教えられている箇所である。

私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

マタイの福音書 6:12

礼拝の中で唱えられる祈祷文ではこのようになっている。

我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。

主の祈り

キリスト教の教義は極めてファジーだと私は考える。なぜなら主イエスは全て「たとえ」を用いて語られたからである。しかし、主のすべてのたとえが旧約聖書の教えとなんの矛盾もないのである。

しかし唯一の例外をご自身を通して示された。それが「贖罪」なのだ。

「贖罪」はこれまでの小さな民族宗教ユダヤ教の唯一の例外にしてキリスト教の最大の特徴でありまたすべてである。

キリスト教はローマ帝国が国教にしたから世界中に信者がいるのではない。この「全人類の罪の赦し」という教えがキリスト教を世界宗教にしたのである。

主がなされた贖罪の大きさを最も強く表しているたとえ話を引用して終わりとする。

そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。

マタイの福音書 18:21-35

【解説】
七回を七十倍=無限回
一万タラント=6000億円=返済不可能な金額=帳消し不可能な罪
百デナリ=百万円=我が子を殺されたくらいの相当に酷い罪

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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