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ハレルヤコーラス【エッセイ】八〇〇字

(画像はオリジナル。拳は次女のふざけて映ったもの。背景は礼拝堂の講壇上部)

キリスト教徒らしく日曜日なので宗教絡み(クリスチャンにとって宗教といえばキリスト教のこと)のエッセイを投稿しようと思う。意外とキリスト教絡みの投稿は反応がいい。

ヘンデル作曲の「ハレルヤコーラス」は有名だ。オラトリオ・メサイア二部最終楽章の合唱で、主イエスが十字架の死の後に復活し、天に昇られる様子を表現している。荘厳で圧倒的な大合唱は信仰のない人の心をも打つことだろう。

ただ「ヘンデルは大したことない」と評する父のような天邪鬼あまのじゃくはキリスト教徒でも心打たれないこともあるようだ。

ちなみに昇天という言葉を天に行く様子で使うことができるのは主イエスだけだ。自分の力で天国に行けるのはキリストだけだという考え方に基づいている。一般人の死の隠語として使えるのは召天だけである(神に召されると言う意味で)。

さて、今朝ハレルヤコーラスを口遊くちづさみながら思った。

「すばらしい信仰心に満ちた『ハレルヤ(主をほめたたえよの意)』という言葉を何度も繰り返すこの合唱は果たして信仰のない人たちが歌った場合、主は喜ばれるのだろうか?」

日本のクラシックコンサートでメサイアが上演される場合、その合唱団は修道会や教会の聖歌隊でもない限りキリスト教徒ではない人が心は込めるだろうが信仰心を持って歌うなんてことはありえないからだ。

そんなことを妻と話していたら「神様は悪しきものも用いられる」と言う意見だった。たとえば、打ち捨てられたキリスト教会が配布するパンフレットを見てその教会の礼拝に集うようになり信仰にまで導かれる人がいると言う。

同じように歌う人の心に主をほめたたえる気持ちがなかったとしても、合唱全体として素晴しく聴く人の心に感動や主をほめたたえる気持ちが湧き起これば主は喜ばれるというわけだ。

なるほど。そうかもしれないな。

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