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倉橋惣三の著書『幼稚園真諦』についてのまとめ+『幼稚園雑草』の再掲


個人的には「幼稚園雑草」しか読んだことが無いのですが、

この方30個の記事にまとめて下さっているのを知って、

この機会に勉強しようと思いました。

前に書いた記事みたいに、自分が大切だなと思ったところを抜き出して、

自分なりにまとめていきたいと思います。


この本は、昭和8年(1933年)夏の「日本幼稚園協会保育講習会における講演の筆記」となっています。

https://note.com/hoiku_mirai/n/n30b333a0bb6b?magazine_key=mb6f5aefbdc6c

幼稚園の保育は、教育のいろいろな種類の中でも、特に対象本位に、実に対象本位に、計画されていくべきものである。(P17)

https://note.com/hoiku_mirai/n/n16a2bc97b12f

「狭いところでも自由感があれば実に広い」と倉橋が言うように、その場が持つ態度、つまり保育者のあり方によって、子どもが感じる広さは変わってくるのだと思います。どんなに広い敷地があっても、自由感が少ないならば、その広さに存在することはできないのです。

・多少いたずらをしても、服を汚しても叱られない
・少しくらいけんかをしても先生方がニコニコと見過ごしている
・恐る恐る大人の目をうかがいながら遊ぶことが少しもない

https://note.com/hoiku_mirai/n/n7b4cc5407f01

では、倉橋の言う充実指導とは何か。

・子どもたちが、自己充実出来ているかどうかというところに重きをおいて指導する
・子どもが自分の力で、充実したくても、自分だけでそれが出来ないでいるところを助け指導する

https://note.com/hoiku_mirai/n/nd8d768d17567

子どもが内からいきいきしているような保育現場では、先生の声があまり聞かれないことが印象的でした。1日の中で大きな声で指示する場面が少ないのです。それでいて、子どもがいきいきしている。子どもは、自分で考える環境があるため、何をして、何をしないかの選択が尊重されている。

そうすると、自分の声と周囲の環境を「聴く」感性が錆びつかないので、無謀な行動はないが、ぐんぐん挑戦したり、失敗を失敗としない「うまく学ぶマインドセット」が磨かれたりしていく。

こういった空間に懐疑的な方からは、「何でもいいってこと?」「わがままにならない?」というような声が聞こえてきますが、その正反対なことが起きます。なぜなら、感じる力、考える力、選択する力が、しっかりと育まれるからです。「違いがある」ことが前提になるので、共依存ではない支え合い、助け合いが誰に言われるでもなく生まれやすくなることを見てきました。

https://note.com/hoiku_mirai/n/nd8d768d17567

個性には違いがあるから、一斉教育や画一教育をしてはいけないという理論から見た話ではなく、

子供子供の生活に即してやっていけば、そういうことに決してならないはずだ(P54)

と言います。

https://note.com/hoiku_mirai/n/nf00353ad8fa4

幼稚園というものはなんでもかんでも先生の計画通りにして、きちんきちんと小きざみに教育効果をあげていくところだと考えている人がある。

何分おきに何をする、その次に何をすると、一々がきちんきちんとなって、ちょうど何かの儀式のときの司会者のように、一同を立たせてお辞儀をさせて、次に歌をうたわせてといったふうに、その順序が時間割としてきめられるべきものではありません。(P74)

https://note.com/hoiku_mirai/n/nd1b96c776ed3

保育案というものが、しばしばお役所への報告のために作られたりします。ところが保育案を出せというお役所では、保育事項がいきわたっているかどうかを調べたいのですから、遊戯ばかりやっていはしないか。暑いものだから睡眠保育ばかりやってはせぬか。ということを心配して調査するのですから、保育事項が偏らずに行なわれていさすればいいのです。(P87-88)

https://note.com/hoiku_mirai/n/n028893fd977f?magazine_key=mb6f5aefbdc6c

「私には何でもなく出来るけれども、あなた方の教育のためにこの紙を折ってあげましょう」とか、「この中に、この通り出来る人あるかしら!」人を小馬鹿にしておいて、「出来たら私が拍手喝采してあげます」なんてなことを言う。(P92)

これでは縁日式インチキ山師保育と言われても仕方ないかも知れません。このとき、子供と先生とは見物人と見せる人とになってしまうのであります。(P92)

https://note.com/hoiku_mirai/n/n33e46e266547?magazine_key=mb6f5aefbdc6c

先生が子供の先生であるゆえんは、その能力において進んでいることでは済みません。能力において先生であるだけでは誘導保育案の先生としては足りません。創造性が子供たちより強く盛んでなければなりません。(P94)

https://note.com/hoiku_mirai/n/ndf988a22261c?magazine_key=mb6f5aefbdc6c

しかしもし幼児生活のそのままを、どこまでも保育法の土台としていこうとするならば、朝において、先ず十分に、自由の感じを、子供にもたせることが、最も大切であるとすべきです。(P101-102)

https://note.com/hoiku_mirai/n/n8c153d037780?magazine_key=mb6f5aefbdc6c

自由遊びというのは、子供が自由感をもって遊んでいることを言うのですから、その遊びの内容について、特別のものを意味しているわけではありません。(P103)

https://note.com/hoiku_mirai/n/ndde2cb7ccb19?magazine_key=mb6f5aefbdc6c

「先生、今日は何をするんですか?」
「今度は何をするんですか?」

この本が書かれた当時、幼稚園でよく聞かれた子どもの声だそうですが、現代はどうでしょうか?

倉橋はこの状態を「奴隷的精進感」と表現しています。

https://note.com/hoiku_mirai/n/ndde2cb7ccb19?magazine_key=mb6f5aefbdc6c

幼児一人ひとりの自由感を大切にし、個の生活から始まっているのであれば、個からグループへといくのが自然の流れではないかと。

https://note.com/hoiku_mirai/n/nf9555a03be2d?magazine_key=mb6f5aefbdc6c

もっとも流れているからといって、教育の間のーー子供のーー生活は河の水と違って、次から次へと形も中味も変えていきます。ただ、その変り方が、ぽつんぽつんと切り離れたものにならないで、いつの間にか移っていき、移り変るには、変るだけの必然性があって変っていくことを見落してはならなにのであります。(P121)

https://note.com/hoiku_mirai/n/n98e3c0951c83?magazine_key=mb6f5aefbdc6c

幼稚園にいる間は、幼稚園にいることを忘れさせたいが、帰るときには幼稚園から帰るらしい感じを、幼児なりにも持たせたいと思うのです。(P129)

https://note.com/hoiku_mirai/n/nc0f37546a9ff?magazine_key=mb6f5aefbdc6c


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個人的には「幼稚園雑草」という本が好きなのだが、noteで調べてみると、自分の書いた記事しか出てこない…笑



子供にとってうれしいことは、我等がいかに立派な人間であるかよりも、我等をいかに十分に彼等に与えてくれるかである。子供にとってもっとも幸福なことも、教育にとってもっとも肝心なことも、恐らくこれに他あるまい。我等は何をやるかでなくて、我等自身を与えることである。それだけが我等に出来る。 幼稚園雑草(上)p17

―――自分でなければならない。―――・・・何事でもこういう心持があってこそ、自分のしていることに力が入る。それでこそ、相手に充分に徹底し得る。・・・どうしたら、どうしたらとばかり考えていて、自分が一人ひとりの子供たちの為にどの位必要のものだということは、一度だって思いもしない。子供たちは要求しているのだ。私を要求しているのだ。私からではない。私をだ。私からお噺を聞きたいばかりじゃない。お噺を私から聞きたがっているのだ。私と遊びたいのだ。 幼稚園雑草(上)p138~139

子供の相手に欠くことの出来ないものは積極、大胆、長閑さと共に、細心と、深慮と、慎重とだ。子供といっしょに笑いながら、ふざけながら、おどけながらも、自分を自ら戒め慎みてみだるところのない一点の厳粛味、それのないものには子供は託せられない。 幼稚園雑草(上)p32

今日のお子さん方の共通の欠陥が、何事にまれ熱中することの少ないということにあるのでありますから、・・・幼稚園ではお子さんが将来物事を行うに際してそれに集中し得、熱心になり得る素地を作ろうとしているのであります。 幼稚園雑草(上)p163~164

ここで我等の主に考えていることは継続よりも、先ず程度の方である。本真剣の長く続いてくれることは、我等のもっとも希望するところである。しかも、仮に長さは短くとも、とにかく現在自分のしていることに専念没頭してもらいたいのである。すなわち我等の問題は先ず集注の深さの多くを意とする。物事を浅く上滑りしか出来ない子供を、我等はもっとも憂い悲しむのである。

教育の目的と児童の所意とは一般に一致しているものではない。教育は児童を賢くしようとする。児童は決して賢くなろうなどとは思っていない。教育は児童を善人にしようとする。児童は決してそんな望みを持っていない。児童は遊びの面白からんことを求める。お話の面白からんことを求める。否、もっと厳密には面白いということさえ求めていない。面白いというのは結果である。児童の没頭していることは遊びそのものである。傾聴しているのはお話そのものである。その他に何を求めても考えてもいない。


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