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②倉橋惣三流!「子どもと遊んでるだけ」と言われた時の言い返し(幼稚園雑草を参考に)

A.


「半日や一日そこらの超短絡的スパンでモノを言ってもらうのは困るな。貴方は毎日、子ども達と機嫌良く遊べるメンタルの強さは備えているかい?役に立つかどうかばかり考えてしまう大人特有の凝り固まった成果主義に縛られず、遊びを通じて得られる目に見えない成果を一心不乱に追い求め続ける教育センスを持っているかい?子どもの遊びたいという気持ちに火をつけたり、間違った遊びを是正したりしながら、子ども達を一生懸命遊ばせることで満足させる教育技術を有するかい?子ども達から『幼稚園は好きな所、楽しい所、面白い所』って言ってもらえるように、一貫した努力を以て毎日の『遊び』を創り上げていく覚悟はあるかい?

それらが貴方に無いのなら、軽々しく『子ども達と遊んでるだけ』と口に出すのは慎むべきだと思うな。」

<参考箇所>

・・・ただああやって、毎日々々子供と楽しく遊んでいるという事だけが、それ自身容易の業でないのである。一日半日ならば一生懸命子供の相手はだれにも面白いものである。しかしそれが毎日であある。日々日々繰りかえされているのである。退屈まぎれにただちょっと子供と遊ぶ時の面白さを以て、保叔の仕事としての遊びを律し得る訳のものではない。永い間には、気分の悪い日もあろう。胸に一身上の心配のあることもあろう。出来ることならば一日何もしないで考えていたいようなこともあろう。殊に、保叔は物思いやすい若い年頃の人が多い。何彼につけて心に動揺の起り勝ちな年頃である。しかも毎日同じように機嫌よく子供と遊んでいなければならないのである。・・・一体人は結果さえ得られるならば、途中はたやすく忍び得るものである。なおまた結果があるという手答えさえあるものなら、それだけでも途中の苦労を慰めもされ、忘れられもするものである。しかるに保叔の仕事はこの「手答え」なるものにおいてもっとも弱い性質のものである。理論上の結論や、経験上の自信はとにかくも、日々その時々に、これだけ遊んだから、子供にこれだけの利益があったという風の手答えは全くないのである。これが学校の教育となれば、いかに下級であるとしても、読本一枚教えた、九九を一つ覚えさせたところに、目に見えた結果が現れている。保育の仕事では、それさえ少しも得られないのである。極端にいえば、こうやって毎日毎日していることが、果たしていかに効験のあることか、疑い出したら分からなくなるものである。自分の仕事に手答えのほしいにはだれでも同じことであるが、若い頃は殊にそれが強い。それも仕事に無責任な呑気家ならとにかく、熱心家誠実家であるだけ、仕事に手答えが欲しいものである。・・・疑わず惑わず、急がず焦らず、一貫した努力を以て、毎日の「遊び」をつづけていなければならない。これがなかなか以て容易なことでないのである。

幼稚園雑草(下)p11~13

「真に笑がおの人でなくては幼児の友になれぬ」ということを終始忘れないでおります。・・・不平ということを聞いたことがありません。不機嫌な
顔色を見たことがありません。どんな寒い日でも暑い日でも、風邪の日も雨の日も、どんな忙しい疲れた日でも、この幼稚園の子どもは先生方の額に八の字のよっているのを見ることはありません。・・・健康の具合とか、特別な事情とかで、どうしても心のさえざえすることの出来ないような時は、ここでは遠慮なく休んでいいことに先生からいい渡されてあります。その代わりに子供に接している以上は、機嫌の悪い、活気のない、いやいやながらというような顔付は固く禁物になっております。

幼稚園雑草(上)p98~99

子供の遊びはつまり子供の身体と心との旺んな活動が外に現れたのに外ならないものであって、子供が遊ぶということは大袈裟にいえば、つまり子供が生きているということと同じ意味であるといってもいいのです。昔から子供の遊びをつまらないものだと思うことがあったのは、つまりそれが何の役に立つかということを大人と同じような意味で見てゆき過ぎたからであって、一時間遊んだからこれだけ仕事ができたとか、一日中遊んだからこれだけ役に立つ用が出来たとかいうことでは勿論ない。けれどもその遊びの中で自然に子供が身体と心を活動させているところから起る利益というものは、実に非常なものであるのです。子供が遊んで困ると口癖のように言う人も、その子供が遊ばなくなったらどうでありましょうか。・・・殊に子供の身体と心とを存分に活動させてゆくということを大きな目的としている幼稚園というものにとっては、子供の遊びは何よりも大事なものと言わなければならないのです。ある人は塀の外から幼稚園をのぞいてみて「何だ遊ばしてばかりいるじゃないか」という人もあるかも知れない。また「幼稚園に通わしたのに何一つ役に立つようなことは教えてくれないで、ただ毎日遊ばしてばかりいる」といって不足を述べる人があるかも知れない。こういう人は幼稚園というものを一番わかってくれない人であって「さすが幼稚園である。自宅では遊ばない子供もここへ来ればあんなによく遊ぶ、よくもああやって一生懸命遊ばれるものだ」といって貰ってこそ、それは幼稚園にとって大きな手柄です。・・・ところでこの子供を遊ばせるということをも少し進んで考えてみると、どうしても三つのことにならなければならない。その一つは子供の遊びたいという心を満足させてやるということである。・・・幼稚園はこの不満足から子供を救ってやって、場所も与え、道具も与え、相手も与え、また遊び方も教えて、子供の遊びたさを出来るだけ満足させてやろうとするのである。・・・幼稚園が子供を遊ばせるという第二の役目はこの点にあるのであります。即ち幼稚園はただ遊びたい子供を遊ばしてやるというばかりでなく、子供を益々遊びたいものに導いてやるのであります。・・・その遊びが時としては間違った方に行かないとも限らない。もしそういうことがあった時には、それを正しい方へと導いてゆくということは是非とも必要なことでなければならぬ。

幼稚園雑草(上)p146~148

つまり幼稚園の一日は、教育の結果ということからは勿論有益なるものでなければなりませんが、子供にとっては実に楽しいものでなければなりません。すなわち幼稚園はいかなる所かということを子供に問うたならば「好きな所」「楽しい所」「面白い所」と答えるでありましょう。それでこそ幼稚園なのであります。

幼稚園雑草(上)p157

<私見を少々>

「子どもと遊んでるだけ」と言ってる人は、ただただそう言ってるだけで、その原因には相手の無知や軽い気持ちがあると思うから、
それら2つを指摘しつつ、プロとしての姿勢を伝えたいなと思いました。

個人的には「遊んでるだけじゃん」と言われたことがまだないのですが、
今後言われた時には、「へへへ…そうだよね…」みたいな感じではなくて、
ちゃんと反発できる言い返しが出来たら良いなと思いました。

言われる分に関しては、”言う”、”言わない”は相手の問題なのでどうでもいいが、自分がプロとしてお金をもらっている行為をそんな風に言われた時に黙って受け入れているようじゃ失格だと。ちゃんと自分の行動に誇りを持って、それを言語化するようにしたいと思います。

『すなわち幼稚園はいかなる所かということを子供に問うたならば「好きな所」「楽しい所」「面白い所」と答えるでありましょう。それでこそ幼稚園なのであります。』というのは、ヴァルトツヴェルゲ森の幼稚園の先生方に「この幼稚園の教育目標は?」って尋ねて、「子ども達がここでの1日を楽しんでくれること」と答えてくれたことと一緒だなと思いました。やっぱり、幼稚園児は遊びによって体の成長と社会性を伸ばす段階だし、それは子ども達それぞれによって速度が違うし、時間をかけて少しづつ熟していくモノであるから、なんか「思いやりのある人に育てる」みたいな”大そうな”目標なんて掲げずに、子ども達の一日一日を遊びを通じて育てていくことが大事なのかなと思います。

それを示したのが「疑わず惑わず、急がず焦らず、一貫した努力を以て、毎日の「遊び」をつづけていなければならない。」という言葉かと。自分にとって教育とは、『今日という1日を育てる、つまり、”今日育”』であるので、結構教育哲学的には倉橋惣三とマッチする感じですね。

ちょっと時間をおいて熟成させて、追記で何か書きたい・・・

「メンタルの強さ、教育的センス、教育技術、覚悟」だね。

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