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ぼっちと学生寮
常識が通じない場所、それが学生寮だった。裕福な家庭で生まれ育った者たちが通う華やかな私立大学の中にひっそそりと佇むノスタルジックな建物の中で私はこの世の底辺を学んだ。
遠方の大学を合格し一人暮らしが確定した私が、親の「普通は寮に住むもんなんじゃない?」という発言を真に受けて、男子33名が共同生活を送る学生寮に放り込まれることとなった話をする。
あの決断をどれほど後悔したことか。
コミュ障ぼっちが大学生の寮生活を考えたい。
個室ビデオで過ごすのがたった一つの娯楽だった
大学入学とともに入寮した学生寮は、1年生と2年生は必ず相部屋になる決まりだった。
つまり寮に入るということは、プライベートを失うということに等しい。
「寮=みんなでワイワイ」なんて短絡的な発想ができるのは、その生活を経験したことがない、もしくはちゃんと個室が確保されているなんちゃってシャアハウスを寮と信じ込んでいる世間知らずくらいだろう。
実際正常な人間なら1週間足らずで、プライベートな空間がないことに発狂するはずだ。
考えてみて欲しい。家に帰ると先輩の目線があり、部屋の中でも先輩の目線があり、食堂や風呂も共同で、「外面」を常に保つ負担を要するのだ。
今考えると「大学では群れない」というスタンスはこのような環境で過ごす反動から生まれたのかもしれない。
「もう辞めたい」と何度も思ったが、経済審査ありの学生寮にいるくらいの私なので、当然一人暮らしや外泊が気軽にできず、耐え忍ぶ毎日。
そんな私のオアシスは個室ビデオだった。
悠々自適にAVを見て過ごせる空間は、毎日帰宅する寮以上に精神の安定が感じられた。もはや「ただいま」と言ってしまいそうな2畳半のフラットルームは、当時寮で奴隷に近い身分であった1年生の私でさえフラットに扱ってくれるただ一つの場所だった。
そんなとき事件が起こる。
大学1年生の冬。卒業する大学4年生の追い出しコンパが居酒屋で企画されたときだ。
今思うとゲームという名のパワハラ紛い(どんなものかは想像にお任せする)の行事が横行する危険な現場だった。
それに加え「飲み会」というものにアレルギー反応するくらいにぼっちを極めていた私だったので、それが嫌でしょうがなかった。
だが、先輩に強制参加だと言われてしまえば断りきれない。
酒を一切口にはしていないものの、1次会を終えた私の精神は磨耗しきっているためふらふらで、安寧を求めた私の行き先は決まっていた。
川から海に下る鮭のようにビデオボックスに入室するとそのまま寝た。
人は時に第6感であらぬ念を察知できるのだろうか。深夜2時に個室ビデオでふと目を覚ますと寮の先輩から100件近い通話履歴があった。
状況が把握できず、折り返し電話を入れる。
「おい、大丈夫か?」
私を気遣うような第一声が聞こえて何のことか分からなくなったのを覚えている。
どうやら当時、複数ある大学の寮のうち1つが未成年飲酒騒ぎを起こして廃寮になったらしく、学生課から飲み会を行う際は未成年寮生を厳しく管理するように言われていたらしい。
要は飲み会での不祥事が露呈すると寮が潰れるのだ。
実は自分が抜けた1次会のあとに近くの店で2次会が行われたらしく、その時私の所在が分からないと騒ぎになったらしい。
もし仮にトラブルに巻き込まれていたとすると管理不足の問題になる。そんな時代だったから当時の寮長が焦って、消えた私を必死に捜索したらしい。
寮に帰ってきた私は、先輩に取り囲まれ食堂に正座させられた。
「お前……どこ行ってたん?」
「えっとキャッツ(個室ビデオの店名)です」
「それって個室ビデオちゃうか?」
「……はい」
「俺らが必死に探してる間、お前一人でAV観てたんか?」
「いえ。寝てただけです」
「怒らんから正直に言うてみ」
「ちょっとだけ……しましたね」
それ以降寮でのあだ名はキャッツになった。
事情を知らない後輩からはよく「劇団四季好きなんですね」なんて言われることとなる。
金持ちばかりの私大生に紛れる学生寮の最低な仲間たち
「ギャンブルって奨学金でやるもんじゃないの?」
「麻雀を打ち単位を投げる。これが俺の二刀流」
私が入学した大学はいわば「お坊ちゃんお嬢様大学」と呼ばれるハイブランドなイメージのある私立大学だった。
学生寮はいわばそんな大学の中にあってはならないはずのスラムだった。
品のない笑いばかりが横行していて、この寮で4年を過ごしたせいで低俗な話でしか笑えなくなってしまい、卒業後はどれだけ社会人との付き合いを失ったことか。
ここでは寮で会った色んな人を紹介する。
◆「気づいたら嵐山にいた」同期
いわゆる酒豪の同期がおり、寮内で飲み会が開催されて次々と床やソファで参加者が酔いつぶれる中、朝まで一人黙ってビールを飲んでいるような人間が彼だった。
そんな彼は酒飲み同士で集まり限界まで飲んでみようということになった日があったらしい。
珍しく記憶が飛んだという彼は、その次の日飲み会を行なった場所から20kmも離れた嵐山で目が覚めたらしい。
しかも寝ていた場所が知らない車の中だったそうだ。
幸い車の中には誰もいなかったが、財布を含む持ち物が全てなくなっていたようで、彼は道を聞きながら20km以上の道のりを経由して寮まで帰ってきた。
この話を聞いた彼の相部屋の後輩が方位磁石を誕生日プレゼントしていた。
◆やばい先輩
普段は寮に住んでおらず外で遊び歩いているやばい先輩がいた。
たまーに朝方出没すると噂の名前だけ聞くレアキャラだった。
たまたまその先輩と食堂で一緒になった時、「なあ、悩みがあるんだけど聞いてくれない?」と話しかけられる。
どうやら彼女が女医らしく、その結婚の時期についての相談をされた。(全く面識のなかった私に)
その1ヶ月後、今度は風呂場でその先輩と会った。
「看護学生の女と付き合ってんだけどそいつの名前のカクテルを作って〜」
結婚を考えるくらいの彼女がいたというのに、この人はこんな短期間で乗り換えるのかと疑問に思いつつも、その話をシャワーノズル片手に聞き流す。
その1ヶ月後、またその先輩と会った。
「フィリピンで遊んでたら新しい彼女ができてさ。やたらタトゥーあるなって思ったら、マフィアの娘だったんだよねー」
この先輩の言う彼女は、 My Loverではなく文字通りSheなのかもしれないと思った。
後輩とグレーなお金で飲み歩いた夜
私が2年生のとき、相部屋していた後輩(とはいっても浪人していて同じく20歳)と「飲みに行きてぇな」という話をしていた。
しかし、お互いの財布の中身を見ても雀の涙。
そんなときに私は机の上に放置されているお金の入った封筒を見つける。
「なんですかそれ」
「文化振興費だ」
私の住んでいた学生寮は戦後から残り続ける文化施設として大学側から公認団体として認知されており、例えば大学が強い部活動の活動費を一部負担するかのように、寮でイベントを行った際の何割かを立て替えてくれる制度があった。
当時寮長であった私はその日の昼間、寮の活動援助をする文化振興費の受け取りをしていた。
後輩と二人で封筒の中身を確認する。
2万円弱、私たちにとっての大金がそこにあった。
「この金俺らに使ってくれって言ってますよ」
「バレなきゃ犯罪じゃないしな…」(※次の日ちゃんと立て替えて納めました)
封筒を徐に取って寮を背にする。
金がなくて飲みにいけないと泣き言を口にしていた頃とは打って変わり、俺たちの背中はもう惨めじゃなかった。
それから後輩と二人で普段は行けないような洒落た居酒屋に行った。
飲めやしない竹鶴を片手に、寮生活について語り合う。
普通大学生といえば、隠キャと陽キャがいて、その中でもグループがあり、異なるコミュニティの人間とは混じり合わないらしい。
でも実際当時の私は大学ではぼっちで、相部屋の後輩はサークル活動とクラブ通いを日課にするウェイ勢だった。
普通に大学で過ごしていたら絡むことのない2人が話す、ひいては様々なコミュニティに属しているはずの大学生たちがともに過ごす空間って貴重じゃないのか。二人で飲みながら寮の特異性に気づいた。
確かに四年間の共同生活は窮屈なのかもしれない。だけどもこの四年があったからこそ様々な人間に偏見を抱かないことが身につくし、きっとこの先無駄にはならないだろうと、柄にもなく深い話になった。
「今日は美味い酒でしたね」
その日妙な充実感に満ちていたのはきっと深い話ができたから……ではなく、きっと人の金で飲めたからだった。
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