「装いせよ。我が魂よ」果敢にしてオトコマエな小川洋子と山田詠美。魂が美しくあるには、装いこそ必要。
「文学は懐が深い。テーマにならないものはない」
作家の小川洋子さんはそう言い切る。それでも自身、苦手な分野があるといいます。
それが「性・官能」をモチーフとする分野。
なるほど、上品なイメージがある彼女の作品。でもそれとは裏腹に、弟の肉体を密かに慕う姉だったり、妊娠した姉に殺意を抱く妹だったりと、書くテーマは禁断領域に軽々と踏み込んでいます。
透明感をまとった穏やかな言葉遣いに身を任せていると、ある時、「言い方」と「言っていること」とのとてつもない高低差に気がついて、愕然とする時が来る。
それが小川作品の真骨頂なのです。
そんな彼女がエロティシズムそのものに果敢に挑戦した最初の作品が、掌編の『バタフライ和文タイプ事務所』(「海」所収)。
次から次へと出てくる淫靡な文字。欠けたタイプ文字面の修理のやりとりをめぐって、「指先と声とシャツの色」しか知らない活字管理人への関心を高めていく女性タイピスト。
エロティシズムというものは、そこにストレートに接近していくほど、遠ざかるもの。
文字を分解していくくだりでは、文字通りの「ゲシュタルト崩壊」に通じる崩壊感に埋まっていく。
しかしラストは怒涛のお約束モード。読者の期待に向け、反転を見せながらもユーモアの装いを翻さず押し切るという見事さです。
装いというものは、包まれているものに劣らず、本質をまとってしまう。
例えば食べ物は、それをそのまま配膳されても食指は動きません。
不純物が取り除かれ、美しい食器とともに、箸をつけるにはもったいないほど凛として仕上がった膳。
そうなって初めて、食べる前から味わいの想像を掻き立て、受け止める粘膜を濡らし、官能の準備が整う。
姿かたちが底知れない人の「魂」と、それを美しく包み込む「装い」。
人間の魂はきっと不純物だらけのえげつない姿。
装いが美しいほど、つまり落差が大きいほど、隠された魂のそんな本性が露わになる。
おそらく文学性とは、この距離のことを言うのかもしれません。
神の前に出るにはバッハの言う通り、「装いせよ。わが魂よ」なのです。
一方、「官能」を得意にしているのが、エイミーこと山田詠美さん。
黒人との同棲生活を官能的に描いた『ベッドタイムアイズ』でデビュー。
文体の透明感では小川洋子さんに負けていません。
透明感の秘密は、作家の存在が文面に現れないこと。
作家の「こう感じてほしい」「こう読んでほしい」がバレて作者が登場してしまうと、読者は暑苦しく感じ、一気に興覚めする。
いや、バレないようにしなければいいというのではありません。
エイミーの場合はとっくにバレています。バレているからこそ、数々のバッシングにもあい、今でさえ読者層を狭めている。
しかし、こんなにオトコマエの女性作家もいません。
バレたうえで、美しいものを美しく書いて何が悪い。そう開き直った潔さがオトコマエなのです。
さらには、彼女のオトコマエぶりは、官能モノは下品に落ちる危険がいつも伴うことを百も承知していることにあります。
一つの創作を始めるとき、彼女はいつも「自分にこれを美しく書けるのだろうか」と生みの苦しみにのたうつといいます。それは人間の最もナイーブな官能の世界だからこそ、絶対に裏切りたくないという誠実な格闘。
だから、エイミー作品の冒頭は、さっぱりしていてヌケのある力強さがあります。
やっと己を許せた証。
格闘の後の流れた血をていねいに拭き取って装いを正し、すっくと立つ凛々しさ。
そこではもう作者の姿は消え、普遍の世界が立ち現れています。
エイミーは小川洋子さんとともに、ストーリーで引っ張るタイプではありません。
文体や言葉そのもの、つまり、世界の切り取り方を見せる作家。
どんなにストーリー展開が魅力でも、文体が好みから外れていると、食は進みません。
見かけ立派な体裁をしたメニューでも、素材が悪いと実際には美味しくないのと同じ。
ストーリーで装うのではなく、言葉そのもので装ってあげる。
そうしたとき、決して直視できない魂の姿をすっと垣間見せることができる。
この二人はそれを証明してくれています。
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