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現代の教養のための大学入試小論文 #20 ~「技術知」と「思想知」~
ごきげんよう。小論ラボの菊池です。
聞きなれない言葉かもしれませんが、「技術知」と「思想知」の区別を扱います。これらは生活に深く根差したものでもあるのです。
キーワード
「技術知」と「思想知」
説明と要約
技術としての知は、道具としての知でもある。この知のあり方は、それが〈私〉という主体によって利用可能なように整理された形で知識を形成するものである。技術知は、〈私〉がそれを利用したり、しなかったりする形で知識について考える。経済的生活・物質的生活はこれなしでは成り立たない。
問題は、技術知的発想でなんでも片付けられてしまうことである。技術知は使い勝手がいいことが求められる。具体的には、「受験英語をマスターしたければこの参考書を使え」といったような、目的のよしあしを無視して手段と目的との適合性を重視するものである。
一方「思想知」は、知識を〈私〉の人間の中心にあるものとしてみる。そこでは、知は〈私〉の生き方を支えたり、ゆがめたりするものである。思想知では、知はイデオロギーや価値観と密接に結合し、〈私〉を無意識のうちに捉え、〈私〉をある方向へ突き動かす。思想知は、〈私〉に影響を与え続けていたイデオロギーや価値観をはっきりと認識したものであり、〈私〉の人間形成につながる価値観に積極的に参加するものである。
思想知は〈私〉が設定した目的が本当によいものかどうかが吟味される。これは先ほどの技術知とは異なるものだ。技術知的発想では目的それ自身の価値は問われない。目的・手段の連鎖を追い続け、人生をひた走る〈私〉の生き方、ありようそのものが視野に入ってこないのである。
出典
島崎隆「認識論の現代的課題」(仲本章夫著『認識・知識・意識』創風社、1992年)
出題校
岐阜大学地域科学部(前期)
解説
普段私たちは、たとえばこの投資に関する本を読めば儲けが出るのか、といったように、自身の目的について、その手段が適しているかどうかを考えることが多いと思います。私たちは経済的・物質的な世界を生きているわけであり、そこにおける利益追求のためには目的と手段の適合性が問われるわけです。これが筆者のいう「技術知」ですね。しかしこれには落とし穴があり、「目的」そのものの是非は考慮されていないのです。たとえば受験勉強の目的である大学制度について、技術知的観点からは、それを深く考えることはありません。これを筆者は「ブラックボックス化」と呼んでいます。筆者のいう「思想知」により、そもそも目的自体が自身にとって、ひいては社会集団にとって適正化どうかを判断する必要があると主張しているのですね。
拙著もよろしくお願いいたします。それでは♨
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