見出し画像

もうTSUTAYAに行くことはないのだろうか

大学時代に友達とTSUTAYAに行ってよくわからないB級映画を借りたことがあった。八王子の川の付近にあって、みんなで車で行った。2014年の冬か。借りてきて家に戻ったのにそれを見ずにずっと喋ってた。結局、映画は大事に部屋の真ん中に置いていたままだった。ジャケット見て面白そうだな、と話しながらその時がピークだったんだけど、そうやってワクワクできたこと自体に価値があったと思う。調子に乗って7泊とか借りたけど、明らかにそんなに見る予定なんてなかったのに。そこから僕は放送作家になって一時期はTSUTAYAのもう貸し出さなくなったCDを百貨店の片隅で売るバイトをしていた。全然人が来ないなーなんて思ってると人が来る。ドアの前にレジがあって、ずっと寒かった。すると社員がストーブを持ってきてくれたり、コート着ていいよと言ってくれたり、椅子まで用意してくれて座ってていいよと言ってくれた。最後には、「お客さんがいなかったら、本業のアイデアとか練ってていいから」と耳打ちしてくれた。その優しさが嬉しかった。僕は本業の仕事なんてほとんどないのに、ノートに鉛筆を走らせていた。

今はNetflixがある。amazonプライムもあるしTverもある。

7泊で映画を借りてきて、結局見なくて笑い合うなんてことはない。誰かがアカウントを持ってれば家のテレビで見ることができる。名作が無数にあってスマホでレビューを確認しながら自分たちの気持ちに合った映画を簡単に見ることができる。そうやってなんとなくTSUTAYAとかGEOにいくことがなくなっていく。何となく手を伸ばしてCDやDVDの説明書きを読み「面白そうだ」と思って借りることはもうないかもしれない。全てはパソコンの中で完結してしまうのだ。図書館と同じでTSUTAYAも身近に存在する宇宙だった。一歩足を踏み入れて別次元に飛べるだけの力があった。それは今もある。最後にTSUTAYAに行った時も、何となくで行った。新作と準新作と旧作が並んでいた。新しいかどうかだけでカテゴライズされた映画のDVDたちが並んでいるけど、その雑然さが良いんだよね。僕たちは偶然と何十年前に完成された作品に出会い触発を受けたりする。今はその偶然が科学された。レコメンデーションされるし、より自分に合った作品を見ることができるかもしれない。でも、自分には合わない作品と出会うことも大事なことだ。僕たちは効率的に良い作品を見ようとしすぎているからだ。どんどん世界が狭くなってしまっているような気もする。映像作品を見ることは自分の世界を広げていくはずなのに。TSUTAYAは僕たちの世界を広げてくれた。もういくことはないのだろうか。こんなことを書いているとまた行ってみたくなる。最寄りに宇宙があるのは幸せなことだ。


記事を読んでくださりありがとうございました! 良かったらフォローしてください! よろしくお願いします。