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夢の途中

 ダイスケの頬は少しこけたように見えたが、他は変わりがなかった。中央から分けた前髪が眉毛の端を通って耳に向かい、耳たぶの下からは余計な肉のない顎のラインがくっきり浮かび上がっている。十五歳の時から飽きるほど眺めてきたはずのダイスケの横顔を、私は初めて見るように眺めている。髪の束になった部分や耳の微妙な曲線や唇の皺の一つ一つにダイスケがいて、それを見逃してはならないと思っているかのようだった。
 私達はHEPFIVE前の柵に並んで腰掛けていた。
「久しぶり」とダイスケは言った。「といっても、五日ぶりになるんだっけ?」
「七年ぶりだよ」と私は言った。そっけない自分の声を聞いて、首を左右に軽く振り、銀色の柵棒を両手で握り締める。
 午後七時の待ち合わせに向けて、休日だというのに朝からシャワーを浴び、昼食にはにんにく料理を控え、歯を念入りに磨き、鏡の前で服をいくつか合わせて選び終わると、落ち着きなく台所のスツールの上で煙草を吸って、お互いの裸を知っている同士が分厚い服を重ね着て褒め合うような再会は避けたいが、むしろ積極的に面の厚さを見せることが今では社会人然としている自分の裸の姿かもしれないし、そもそも全てが一人相撲で、私だけが土俵際で塩を投げ、しこを踏み、まわしと尻を揺らしているのではないか、などと考え、何を考えても一緒だと結論を出して、傍目には多分何も変化せずにスツールに腰掛けて煙草を吸っている。煙草を消して立ち上がり、ユニットバスの鏡に向かい、もう一度歯を磨いている自分に気付き、歯ブラシを浴槽の下に思い切り投げ捨て、すぐに半身を折り曲げて拾い、やけくそで浴槽の水垢を擦って、買ったばかりの歯ブラシを台無しにしている。
 街灯の淡い色をうけたスニーカーのつま先をじっと見ている自分に気付き、顔を上げ、そのまま首を背後に傾ける。赤い観覧車の骨組みが絡まった糸のようになって光を浴びていた。
 目の前の高架をオレンジ色の電車が走っていく。さびついた高架に書いてあるJRまで二百メートルという文字と矢印を眺め、その下で右に心持ち曲がった歩行者用信号を眺め、またスニーカーのつま先に戻った。
「なんか、色々忘れたな」とダイスケは言った。「夢日記まだつけてる?」
「つけてるよ」と私は言った。
 ダイスケはホテルのバーで飲まないかと誘ったが、私は金がないのを理由に断った。
「じゃあ、いつものやるか?」とダイスケは言って、揃えた指の先で顎を左右に擦った。
「いいよ」と私は言って、最後だしね、と続いた言葉を口の中に留める。

 ダイスケを先頭に暇を持て余した若い女達に声をかけた。ダイスケの声と顔に無防備に惹きつけられた二人組は、せわしなく茶髪をかきあげながら絶え間なく話し続ける女達だった。一人はミリタリー仕立てのカジュアルなコートで、もう一人は黒いピーコートを着ていた。二人とも、黒革のブーツにミニスカートをはいていた。
「彼氏、三人はいるでしょ?」とダイスケが言う。
「いやー」とピーコートの女が言った。「いるわけないでしょ!そっちでしょ?なんか怪しいし、ホストかなんかでしょ?」
「安心して」とダイスケは言って、彼女の肩に手をまわした。「可愛い女の子に、ご飯をご馳走したいだけだから」
「えー、うそばっかり」と言って彼女は頬が上がりまくっている。
 私はもう一人の女の子に話し掛けた。「何が食べたい?」
「何でもいいの?」と彼女は言って、ゆるいパーマをかけた髪の毛先を指でいじっている。
 私はテンションを上げるためだけに、テンションを上げる。声の高さと話すスピードを二倍にするのを意識するような感じだ。接客業で求められるテクニックがまだ自分の中にしっかりと残っていたことが疎ましいが、役には立ってしまう。
 東通りにある居酒屋に入った。エレベーターを四階で降り、小さな階段を下りると、左にはバー風のカウンターが続き、突き当たりにトイレがある。右にはテーブルが四十は並んでいる。私達はカーテンで仕切られたテーブル席に通された。女達が壁際に並んで腰掛けて、対面に私とダイスケが座った。
「今日は特別な日だから、好きなものを頼んでいいよ」とダイスケは言った。
 飲み物がテーブルに到着すると乾杯をした。彼女達はカシスオレンジで、私とダイスケはジャックダニエルのソーダ割りだった。
「特別な日に」とダイスケが言い、皆がそれに続いて、グラスを合わせた。
 グラスをテーブルの上に置く四つの音が不揃いに鳴った後、彼女達はメニューを開いて顔を寄せ合った。ダイスケの対面の女はピンク色のカーディガンを着ていて、髪を耳の後ろにかけるのに余念がないといった風情で、私の前の女は白い丸首のセーターを大きな胸で盛り上がらせていて、意識がどこか遠くを漂っているような、ぼんやりとした目つきをしていた。
「これも美味しそう」とセーターの女が言った。
「吟味しなくてもいいよ。全部頼んだらいい」とダイスケは言った。
「うそー。高いの頼んじゃうよ」とカーディガンの方が言って、私達の様子を上目遣いで伺った。
 刺身の盛り合わせを二つ、牛肉の香草焼き、マルゲリータ、カマンベールチーズ、ポテトフライ、あさりの酒蒸し、地鶏のチリ鍋を二人は注文した。
 感情のおもむくままに話し続けるのが彼女達の好みだった。彼女達は二人きりでいるかのように話し続け、私達はそれに頷き、盛り上げ役に徹するという構造に落ち着いた。
「小学校の時にブッとんでた人って、みんな中学になってから暗くなったんだよね」とカーディガンの女が言った。「そんなもんなんかな」
「でも中学入ったら、急に敬語だったよね。小学校は上下関係なくて良かったのに」とセーターの女が言って、両手を胸の下で組む。
「中学校で中心だった人もさ、高校なったら目立たなくなったしね」
「初めに化粧してた奴らでしょ?」
「でもあの頃から化粧してたら肌的にやばいでしょ」
「わかる、それー」
「なるほど」とダイスケは言って、天井を見上げて頷いている。「二人はそれで肌が綺麗なのか」とダイスケは言った。
 二人はカクテルを飲み、肩をぶつけ合って何か囁きあって笑い、胸の前で手を叩いている。
 この調子が続いた。私は黙って女達を眺めた。細い指先がグラスをつかみ、顎が少し上がり、白い首が無防備になった途端、唇にグラスがつけられる。口にフォークや箸が何度も差し込まれ、抜いた後には上唇が下唇とくっついたり、離れたりする。料理と一緒に唇をピンク色の舌先で舐め、艶のある茶髪の束を撫でつけるように耳の後ろにかける。腕を組んで下から胸を盛り上げて見せ、テーブルの上に置いたラメ色の携帯電話を何度も覗き込む。私は二人の仕草を延々と眺めている途中で、箸を落としてしまい、テーブルの下にもぐりこんだ。二人とも、もぞもぞ動く太ももの間に白い下着をつけていて、それが三角形になっていた。頭の中で、その下着に火が点いて黒焦げになっていく。私はテーブルの上に戻った。
「リカは、子供の時から可愛かったよ。今でも毎日ナンパされてるしね」とセーターが言った。
「でもなんかね。おっさんばっかりなのよ、わたし。こないだなんてハゲの男に三万でやらしてくれって言われたし、なんかいいスーツ着てて、良さそうな人だったけど無理。ハゲで、しかも腹出てたし。ミナコのほうが、男前にもてるよ。スタイルいいしね」とリカは言って、刺身に箸を伸ばした。
「ぜんぜん男前じゃないし!」とミナコは言って、顔を大げさにくしゃくしゃにした。「こないだ声かけてきた男のほっぺたなんて、ニキビの痕でクレーターみたくなってたし、前の彼氏だってすね毛ボーボーで脇が臭かったし、ガリガリだったし。お前はガリガリ君か?みたいな」
 二人は笑ってテーブルの上をわざとらしく叩いた。私は右肘をついて、手の平の上に顎を乗せて、左手で煙草を吸い、笑顔を浮かべて彼女達の仕草だけを交互に眺めていた。会話に退屈した時の癖だった。
 ダイスケがテーブルの下で私の太ももを軽く叩いた。
「ところで、リカって目が印象的だよね。吸い込まれそう」と私は言った。
「うそ?でも良く言われるー」とリカは言った。
「ミナコは、胸が大きいね。形も良さそう」
「やだー何見てるの!エッチ」とミナコは言って、胸の前で腕を組んだ。「Eカップしかないよ!」
「もう名前覚えてくれたの?」とリカは言って、私に刺身の取り皿をよこした。
「可愛い女の子だけは、勝手に覚えてしまうんだ」と私は言って皿を受け取った。
「絶対うそだし」とリカは言って、テーブルにぎっしり並んだ料理のどれに箸を伸ばそうかと思案する為にうつむき加減になったという風にしていたが、頬は紅潮していた。
 彼女達が話を続け、電車でサラリーマンの隣に座ると臭い、年を取った女の髪形と厚化粧がダサい、主婦の生活にまみれた生き方が嫌、近所の公園でシャツを脱いで裸で走っている老人が気持ち悪い、などとこき下ろしている間、私はダイスケの横顔を眺めてジャックダニエルを飲んでいた。ダイスケは人の良さそうな笑みを浮かべて相槌を打ち、必ず彼女達を高めるセリフを口にしていた。私達の再会にはきっとこういうのがふさわしいのだろう。
 それぞれ三杯目のグラスを傾けている頃には彼女達はますます気を良くして、焼き鳥の盛り合わせを注文し、豚トロのネギ炒めを注文し、サーモンの寿司を注文した。テーブルの上は料理の皿で溢れ返り、四人ともが何度もグラスを皿に打ちつけて、その度にカンという音が鳴り、女達は笑った。その乾いた音を聞くと私は空虚な気持ちになった。テーブルの上だけが相反するように、皿と食べきれない料理で過剰に埋められている。
 ダイスケのような頷き手を前にした時の誘惑に勝てるはずもなく、次第に彼女達は個人的な終わりのない迷宮に足を踏み入れていった。リカはパチンコ狂いで家事をしない母と、世間の目ばかり気にして家族には冷たい父との間に生まれて最悪だという内容を甲高い声で話した。新鮮味のない、本人にとっては重大な話だった。つられるようにミナコは生まれてくるんじゃなかった、と言い出して涙目になった。
「お父さんに言われたこと、わたし今でも覚えてるの。小学校の時、縁側で足をぶらぶらしながらイチゴを食べている時にお父さんにわたしは聞いたの。わたしはどうして生まれたの?って。そしたらお父さんは、『ミナコは俺がウィスキーを飲みすぎた夜に、たまたま母さんとベッドに入ったせいで生まれたんだ』って言ってわたしの頭を叩いたの。それよりもイチゴのヘタを庭に捨てるなって、頭を叩いたの」ミナコが泣き出した。マスカラが流れて黒色の線が目の下に走っている。
「大丈夫。わたしがいるからね」とリカはミナコの頭を撫でた。「ずっとわたしが一緒にいるからね!何年たってもずっと一緒だよ。本当だよ?ずっと友達でどんな時も一緒なんだよ。ほら寿司を食べて、顔を上げて寿司を食べてよ、ミナコ」
 リカはミナコにハンカチを渡した。うつむいて泣いているミナコの頬にリカは短くキスをした。ミナコはハンカチを三角に折り、その先でマスカラを念入りに拭き終わると歯を出して笑い、寿司に箸を伸ばした。
「二人ともおれの目をみてごらん」とダイスケが言った。「リカもミナコも、思い通りにいかないこともいっぱいあったし、ずっと我慢してきたんだね。誰かに気持ちを分かって欲しかったし、ずっと愛されたかった、ギュッて何の理由もなしに抱きしめて欲しかったんだよね。二人は最高だよ。これから幸せが待ってるって信じてたらいい。純粋で綺麗なこころを持っている子ほど、深く悩むんだよ。でもその後には幸せが必ず待ってるよ」
 テーブルの上に硬直したような沈黙が起こり、リカはうつむき、私はテーブルの下で太ももをつねり、口を開いたのはミナコだった。
「絶対に幸せになるの。ニートとかフリーターとか、そういう貧乏な男じゃなくて、お金と車とマイホームを持ってるような小顔で優しい、B型以外の男を見つけて、何不自由なく暮らすの。絶対に!」
「二人なら大丈夫だよ」とダイスケは言った。「必ず幸せになるよ。今日は好きなだけ食べたいものと飲みたいものを注文するといい。おれ達みたいなのもいるからね」
 ダイスケは手を上げてウェイターを呼び止めて、赤ワインのボトルとグラスを四つ注文した後で、テーブルの下で私の膝を二回叩いた。
「トイレ行ってくるよ」とダイスケは言って立ち上がった。
 ダイスケがいなくなった後、長野に両親から譲り受けた別荘があるので、良かったら遊びに行こうと二人を誘った。彼女達は「行く行く」と競い合うように言うと前がかりになって、左耳をこちらに向けるようにして首を少し傾けた。
「四人でスキーしたり、温泉入ったりしよう。旅費も出すし、考えてみてよ」と私は言って立ち上がった。「僕もトイレいってくる。おじさんになるとトイレが近くて困るよ。ウンコじゃないよ」
 薄暗いフロアの真ん中を私はゆっくり歩いていく。左右にひしめきあったテーブルの上で人々は何事かを話し、料理を口に運び、グラスを掴んでいる。暖房の風に乗って、煙草と油料理が混ざったような臭いと人々の熱気が私の顔に押し寄せる。黒いエプロンを腰に巻いた店員が汚れた皿を両手に通り過ぎていく。
 レジの前で携帯電話を取り出して耳にあて、無言のまま店を出て小さな階段を上がり、エレベーターに乗った。携帯電話をポケットにしまい、その小さなエレベーターの隅にもたれかかった。

 エレベーターを降りると、目の前でダイスケは煙草を吸って待っていた。
「もう一軒行く?」とダイスケが言った。
「もういいよ」と私は言った。
「今度は本当におれがおごるよ」
 私は断り、コーヒーを飲みに行こうと誘った。
 東通りを抜けて横断歩道を二つ渡り、お初天神通りを抜けて、マルビルの方向に長い横断歩道を渡った。私はダイスケの少し後ろを歩いた。強く吹き始めた風がダイスケの髪とコートを右や左に引っ張っている、その流れ方に、浮かんでは消える皺の一つ一つに重要なメッセージがあるかのように、私は眺めている。浮かび上がったのは、今はコーヒーを飲みたくないことと、前置きはいらないということだった。
「ダイスケ」と私は言った。「僕は人生をやり直すよ」
 ダイスケが街路樹の横で立ち止まって振り返る。
「何だよ、いきなり」ダイスケは笑った。しかし演技じみた笑いが去った後には昔のような鋭さが隠しようもなく眼光となって走った。
「人生なんて最初からなかったんだ」とダイスケは言った。「寝ても覚めても夢みたいなもんだ。お前には分かっているはずだ。そもそもお前がうるさく口にしてたことだろう」
「もう過去のことだよ」と私は言った。ダイスケの目が私の目と交差する。そうしてダイスケの目を見ていると私はダイスケになって自分を見ているような気がした。
「過去、現在、未来の区別は、どんなに言い張っても、単なる幻想である。お前の好きなアインシュタインの言葉だ」
「アインシュタインが好きなのはダイスケだろう?」
「いや、お前だよ」
 ダイスケは煙草に火を点けた。オレンジ色の火種が吸い込んだ瞬間に強く弾けるのが見えた。
「今からお前に何ができる?もう遅すぎる。おれ達は夢を長く見すぎたんだ」
「何かはできるさ。夢の中でも」
「地獄を見るに決まってる。やめとけ」
「地獄とは何であるか?考えるに、愛する力を持たぬ苦しみがそれである、と私はいいたい」
「サリンジャーか」とダイスケは言った。
「ドストエフスキーだよ」
「いや、サリンジャーの『エズミに捧ぐ』だよ」
 こんな時に昔みたいな言葉遊びになるのがおかしかった。もしそうだとしても、別れる為に、何かを口にしなければならない。
「ダイスケのことは好きだったし、死ぬまで忘れないよ。ずっとダイスケの言葉の中で生きてきた気がするよ。でも僕はやり直す」
「おい、信じるな」とダイスケは言った。「信じるなよ」
「信じるな?」
「おれの言葉だよ」ダイスケの目はクリスマスに見た仙ちゃんと同じ光を宿していた。
 彼の頬にえくぼを認めて、私は頭を下げた。踵を返し、歩道橋の方角に足を向けた。欠け始めた月が東の空に浮かび上がっている。堪えきれずに振り返る。ダイスケは地下へ通じる階段へと下りている途中で、腰から上だけが宙に浮いていた。徐々に地下へと沈む上半身を私は見送った。ダイスケは振り返らなかった。

 タクシーに乗って帰るという選択肢を始めに切る。バーに行って一人で飲む気にもならないし、歩いて帰る気にもならない。どれも行為以上のものをもたらさないことにずっと前から気付いていたような気がした。
 歩道橋を渡って阪急梅田駅まで歩いた。
 改札に通じるエスカレーターに乗ろうとした時、やせ細った白髪の老人が階段の前でしゃがみ込んでいるのに気付く。立とうとしたが足が震えて、またしゃがみ込んだ。口は開いたままで、唇の端には白い泡がこびりついていた。厚手のスウェットの上下という格好で、所々に黄色い染みがあり、右手には短い棒が握られていた。
「どうしました?」と私は声をかけた。
「杖が折れて」と彼は聞き取りにくい声で言った。
「上まで一緒に行きましょうか」と私は言い、背中を彼に向けた。
 老人を背負って、エスカレーターに乗った。斑点に覆われた骨のような両手が私の首にまわされ、胸の上に垂らされた。小便の臭いがした。すみません、本当にすみません、と老人は私の耳元で言い、その息は歯周病のせいなのか、強い口臭となって鼻先を漂う。吐き気がしたが、息を止めて耐えた。
 券売機の前で彼をおろした。彼は私の肩に両手を置き、頭を何度も下げて、ありがとうございます、ありがとうございます、と何度も感謝の言葉を口臭にして、私の鼻に吹きつける。私は笑顔を浮かべ、同じ空気をしっかりと吸い込み、
「たいしたことじゃないですよ」と言った。
 電車は込んでいた。私は身体の側面でドアにもたれて窓を眺める。そこに映った、窓に迫ろうとする男の顔を凝視する。顔の半分が影になっている境目をなぞる。気配を感じて、窓に広がった奥行きの中に目をやる。髪の長い女が亡霊のように浮かび上がって、こちらを見ていた。口の脇にほくろのある痩せた女で、前髪が眉までかかっている。窓の中で、彼女の視線と私の視線が合い、彼女が口を動かす。愛されたいの、と動かした気がする。私は舌打ちをとっさにして、笑った。振り返り、彼女の姿を探したが、つり革につかまった手と横顔がひしめいた車内では見分けがつかなかった。もう一度、窓の奥に目をやる。しばらくして彼女が再び人影の間に立ち現れた。
 私は素早く振り返り、
「さっきの舌打ちは違いますよ。そういう舌打ちじゃないんです」と言った。
 車両の中の人々が一斉にこちらを見ていた。人間じゃないものがいるという風な険しい目つきか、哀れみの目か、目を逸らすかしている。私は窓に戻った。
 乗り換えの為に電車が数分停まった間に、逆方向から来た電車が隣に並んだ。二つの窓越しに、黒いスーツを着た女が私と同じようにドアにもたれかかっている。私と彼女の間には一メートルほどしか間隔がなかった。黒髪が両胸の前に垂れていた。眉毛は濃くまっすぐに引かれて、薄いブルーのアイシャドウに、ピンク色の口紅をつけている。私は彼女を見つめた。彼女が顔を上げ、私の視線に気付き、牽制するかのような眼光を放つ。私は彼女の存在に向けて視線を放ち続ける。数秒後にはすれ違っていくことがお互いに分かっている間柄で何のつもりなの、という表情が彼女の顔に走り続ける中、私は今生の別れを惜しむように彼女を見つめて、真実が満ちるまで待ち、愛してるよ、と口を動かした。重大な秘密を打ち明けられた時のように彼女の目が開いた。電車が走り出し、私達は二台の車両が創り出した隙間に視線と視線の糸を伸ばしていく。その糸が永遠に切れてしまう少し前に、愛してるよ、と私は言った。




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