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ダブルデート2

 手の平に銀色に輝く四角を載せて、ゆっくり顔に近づけていく。小さなアルファベットでポールスミスという刻印があるのを私は認める。細かい擦り傷に覆われたシルバージッポ。キャップを開けて、ホイールを親指で擦る。発火石の擦れる心地良い音が鳴り、小さな火が現われて、どことなく甘いオイルの匂いがテーブルの上に立ち昇る。オレンジとイエローの尖った火をひとしきり眺めて、いきなり親指でキャップを被せる。金属が触れ合う、カチャという音が鳴って火は消えた。
 午後六時前、予約していたカフェにはまだ真由やハルミツの姿は見えなかった。コーヒーを注文し、煙草に火を点けて、クリスマスソングが鳴り響いている店内を眺める。隣りの席では高校生くらいに見える男女がスーツとドレスに身を包んで沈黙していた。ケーキを向き合って食べるのに、お互い頬を真っ赤にしていた。三人か、四人組の女達がフロアのテーブル席のほとんどを埋めて、窓際の小さな二人掛けテーブルにはカップル達がずらりと並び、テーブルの上に肘を立てて向き合っている。静かな熱い視線、特別な親密さまで半歩というところの伏し目がちな横顔、高らかな女達の笑い声、グラスを持って上下する無数の手。皿と唇を往復する銀色のフォーク。若い男の店員達は白いシャツにベストをはおり、半分ほどが顎に髭を生やしていた。女の店員はサンタクロースを思わせる帽子と衣装に身を包んで、そのミニスカートから白い太ももを惜しげもなく披露していた。テーブルの間を行き来する自信に満ちた女達の脚が、その脱毛してあるふくらはぎが、毛を綺麗に抜き取られた鳥のもも肉を連想させて、それは子供の頃に母がクリスマスに用意してくれた七面鳥の照り焼きまで繋がる。吐き気を催して、しばらくの間、彼女達の脚線美を見ないように努力しなくてはならなかった。
 六時にハルミツがやってきて、テーブルに加わった。黒いカジュアルなジャケットを着て、不精に伸び始めた髪を分けていた。こないだ会った時と分け目が逆になっている。
「よう」とハルミツは言って、平静を装っていたが、打ち明け話をしてから初めての再会だったこともあってか変にうつむいて目を合わせなかった。
「よう」と私は言った。「いいジャケットだね。どこの?」
「ダイエーの二階で買った」
「わりといい感じだね」
 少しの間、二人でコーヒーを飲んでいた。ハルミツは異常気象について、北極の氷が溶けることについて真面目に語り出し、私は夏の暑い日に動物園の北極熊に配られる氷について不真面目に話した。それからは沈黙してコーヒーを飲んだ。二人とも特に話をしたい訳でもなかった。
「何やってんのかな、真由ちゃんは」とハルミツは言った。
「午前中のデートが長引いてるのかな」と私は言った。
 席を立って、トイレに行った。大きな鏡の前に若い男が三人並んで、水やワックスをつけた指で髪の毛先をねじったり、立てたりしていた。私が用を足している横の男が、だらしない音を立てて屁をして、タンを便器に吐いた。鏡の前では、目を大きく見開いて身体の向きを変えたり、鼻糞がないか豚鼻にして確認したり、顔を洗って頬っぺたをパシパシ叩いたりしている男達がまだいて、手を洗うのを少し待たなければならなかった。
 テーブルに戻った時、ハルミツの前に二人の女の後ろ姿が見えた。茶色の革ブーツから伸びた白い脚が太ももの途中で止まり、花柄のワンピースに続く。U字に開いた胸元を輝かせて、振り返った顔は真由で、そのピンク色に光った唇が小さく動いて、柔らかい声を吐き出す。
「何分待たせるのよう?」と真由は言って唇を尖らせる。きょろりと目を動かして、私の目を覗き込んでから笑った。
 もう一人は黒髪を肩まで伸ばした女だった。濃紺の細いジーンズに、グレーの長いカーディガン。ボーダーの薄いニットを中に着ていた。カジュアルな装いだったが、素材が高級感を仄めかしていて、全体として洗練されている印象を与えた。
「ミホちゃん」と真由が紹介した。「見てよ、この細い腰」
「やだー見ないで」とミホが言った。
「ところで、トイレ長かったみたいね」と真由は言った。「わたし達が来るから、緊張してたんでしょー?」
「そうだよ。緊張してお腹が痛くなってトイレでエライ目にあったよ」
「ちょっと、ディナー前にやめてよ」
「とりあえず、座ろう」
 腕にかけていたコートを床のカゴに入れてから、二人は腰掛けた。正方形のテーブルで私とハルミツ、真由とミホが対面する形になった。
「今日のダブルデートのために、分け目を逆にしてきたハルミツ君です」と私は言った。
「これは寝癖だって」とハルミツは言った。「寝癖でたまたまこっちになったの!」
 ミホは口の前に手をやって笑った。白い指と指の間から、綺麗に持ち上がった口の端が見えた。
「今日の分け目の方が素敵よ、ハルミツ君」と真由が言った。
「真由のワンピースも素敵だよ」と私は言った。
「何、呼び捨てにしてるのよう」と真由は言った。
「田中さんっていうんですか?素敵な瞳してますね」とミホが言った。
 私達は笑った。それから三人でハルミツを見た。
「ミホさんは人見知りしないんですね。素敵です」とハルミツが言った。
「やるね、ハルミツ君も」と真由が言った。
 お互いの顔を見合って声を高めて笑った。笑い声と四人の孤独を合わせて、テーブルの上に優しい住み処を創っているみたいだ。
 店員を呼び止めて、コーヒーカップをさげてもらい、コース料理とグラスワインを注文した。ミホは真由の高校時代の先輩で、服飾の専門学校に通っていた。
「服飾なんだ」と私は言った。
「あれ、ミホちゃんに興味もっちゃったのー?」と真由は言った。
「いや、興味はあるけど違うんだ」と私は言った。「昔の友達が服飾に行ってたんだよ。すぐにやめたけど。どこの専門学校?」
 ミホが通っている学校はダイスケのとは別だった。少しがっかりしながら、同じ学校だったところで今更どうにもならないことに気付いて、苦笑いをした。
 店員がグラスワインを持ってきてテーブルに並べた。
「メリークリスマス、四人のデートに」と真由が言ってグラスを掲げた。
 私達はグラスを軽く合わせて、乾杯をした。
「これ、なんていうワイン?」と真由が私に訊いた。
「なんだっけ?」と私は訊き返した。
 前菜に真ダコのマリネを店員は持ってきて、テーブルに並べた。白い皿に薄くスライスしたタコが三列に並んで、レモンの皮とパセリで彩られていた。それを食べて、ワインを飲んだ。真由は豪快に口をあけて食べていて、ミホは幼い頃からフォークを使い慣れている感じで動きに無駄がなく、ハルミツは一人、箸でタコを挟んでいた。私はタコを一切れ、床に落としてしまって、通りかかった店員も含めて皆が笑った。
「なにやってんのよタコ」と真由が言った。
 真由とミホの高校時代の思い出話が始まって終わり、次いで私とハルミツと真由の出会いの話が一段落して、恋愛の話に落ち着いた。運ばれてくる料理と唇を舐めながら、私達は頷き、話の脱線で首がもげるほど笑い、意味ありげな視線を交わして微笑み、くそ真面目に耳をすませたかと思うとすぐに背後に流して、新たな口火を切る。キノコのリゾット、シーザーサラダ、大根とサフランのスープ、白身魚のポアレ、マンゴームースケーキを私達はワインで流し込んでいった。
「こんな日にタカシ君と一緒だったらな」と真由は言った。「クリスマスパーティーを抜け出して、タカシ君と教会の裏でキスしてたのが忘れられないの」
「誰?タカシ君て」とミホが言った。
「彼はわたしの腕を引っ張って、教会の裏まで連れていったの。頬を両手で優しく包んで、彼の唇が狂ったようにわたしの唇に何度も押し付けられた。わたしは好きにさせてたの。タカシ君が好きだったし、嬉しかったから」
「で、誰なの?」とハルミツが言って、ワイングラスに唇をつけたまま、真由をじっと見ている。
「一生忘れないと思うな。でも九歳のわたし達はそれ以上どうすればいいかわからなかったから、たぶん十分か十五分くらいチュッチュッして、でも何分だったんだろ、今まで辛いことがあった時いつも思い出してきたから、なんだか永遠みたい。とにかく両親の元に戻って、チョコケーキを食べることになったんだけど、その取り分のことで喧嘩して、タカシ君はわたしの頭を叩いたの。初恋の思い出」
 初めて見る真由の表情と沈黙がしばらく続いた。
 横のテーブルで金髪のカップルがくちゃくちゃ咀嚼する音が私の耳に入り、女の早口な声を受けて、「だんだん疎遠になっていくんだって。どうせ疎遠になっていくんだって」と男が言う声が聞こえてくる。私はジッポライターで煙草に火を点けて、天井に向って煙を吐いた。
「ハルミツ君は初恋とか覚えてる?」と真由は訊いた。
「幼稚園の時」とハルミツは答えた。
「どんな子だったの?」私は言ってから、ハルミツの打ち明け話を思い出して、意識がテーブルの上をほんの少し離れる。
「すごく好きだったよ。アユミちゃん」とハルミツは言った。視線が私の頭上を突き抜けて、遠くを見ている。揺るぎない落ち着きが彼の顔に浮かぶ。よそ行きの仮面を外した裸の顔だ。ついこないだにも私は同じ顔を見ていた。アパートのベッドの上で、好きな人がいるとハルミツが打ち明けた夜。
「誰?」と私は訊いた。
「三人いる」とハルミツは答えて、口をぴったりと閉じる。
「あっそう」と私は言った。「三人か」
「おかしいと思う?」とハルミツは言った。
「思わない」と私は言った。自分にもそういう覚えがあった。小学校の入学式の日、私は朝から泣いて、母の太ももにしがみついている。「お母さん、怒らないでね。もし、のび太君みたいに0点とっても、絶対怒らないでね」
「怒らないよ」と母は言った。
「絶対怒らないでね。絶対だよ、お母さん。怒らないでね!」
 私は黄色い帽子を被って灰色の校舎に足を踏み入れる。踏み入れてからは、見知らぬクラスメイトがいても、特に気にならなかった。私は不安もなく、大勢の中に溶け込んで、意識を全体に委ねている。四月生まれから順に、男女に分かれて廊下に並ばされて、私達は赤と白の縞模様をした垂れ幕が両脇に垂れ下がった中を体育館に向けて歩いていく。私は思った。前にいる、よく日焼けした髪の短い女の子、隣りの色白で丸顔をした優しそうな頬っぺたの女の子、前髪を眉毛の上で揃えてある、ずっと微笑んでいる女の子。この三人の中の誰かと結婚するんだ。私は決心して、三人の顔を順番に眺めながら、歩いていく。必ず、この三人の中の誰かと結婚するんだ。
 ハルミツは同じゼミの三人の女が毎晩ベッドの上に思い浮かび、夜も眠れないほどなのだと話した。
「どうしたらいいかな?」とハルミツは最後に言って話を終える。私は頭を垂れて、視線をハルミツの足元に注ぎ、沈黙以外の形で返答できることがあるかどうか考え始めている途中で、吹き出してしまった。ハルミツの靴下に穴が開いていて、そこから親指が顔を出していた。
「靴下から親指が出てる」と私は言った。
「うそ?」とハルミツは言った。
 私は立ち上がり、腰を折って足元へ視線を注いでいるハルミツの背中を叩いて笑った。
「叩かなくていいから」とハルミツは言った。
「とりあえず、寿司を食べにいこう」
 私は根元まで迫った煙草の火で指が熱くなって、テーブルの上に再び戻り、煙草を灰皿に押し付ける。フィルターが燃えた嫌な臭いがした。
「アユミちゃんは幼稚園に入ったばかりの時に年長だった女の子でさ」とハルミツは言った。「いつも手を繋いでくれて、顔を覗き込んでくれたよ」
「もてるんだね、ハルミツ君」とミホが言った。彼女の目は、こぼれ落ちそうに開かれていた。かつてハルミツの顔を覗き込んだ少女はきっとこういう目をしていたのだろうと私は思った。「好きな子にしか、そんな風にしないものだよね、真由ちゃん」とミホの視線が真由に移る。
 真由は口の中に食べ物がいっぱいで応えられず、こくんと頷いて、助けを求めるようにワイングラスに手を伸ばす。
「今でも覚えてるのはさ」とハルミツが言った。「外で体操か何かした後に、手を洗いに行った時なんだ。蛇口が何本も並んでるとこで、皆が手を洗ってる。それで」と言い淀んでいる。
「何よ、早くー」と真由が言った。
「それで、実は水の出し方が分からなかったんだよ、その時。家ではお母さんが水を出してくれてたから。だから、蛇口を手の平でトントン叩いて、流れてきた水に慌てて、手を突っ込んで擦ってたんだよ。でも全然水が足りなくて。それで何度も叩いてるんだけど、全然水が出てこないんだよ!まあ当たり前なんだけどさ。皆は手を洗って次々といなくなっていく。すごく辛くて哀しい気持ちになって泥だらけの手を見つめていた時に、後ろから手が伸びてきて、星型の部分を回したんだ。誰が水を出してくれたと思う?」
「アユミちゃんしかいないでしょ」と真由は言った。
「アユミちゃんしかいない」とハルミツは言って、ワインを一口飲み、舌打ちをした。「あんなに優しくしてくれた女の子は」
「今の舌打ちはどういう意味?」とミホが言った。
 私は皿の上にフォークとナイフを伸ばした。酔いのせいか、頭を働かせていたせいか、口に入れた白身魚のポアレは味がしなかった。
「ねえ、ハルミツ君、『真由ちゃんしかいない』とか、今みたく言ってくれない」
「いやだ」とハルミツは言った。
「お願い」と真由。
「ミホちゃんは初恋とかある?」と私は訊いた。
「んー」とミホは言って、口の周りをナプキンで拭いた。
 ミホが話したくない可能性を考慮して、話題を変える準備をしたが無駄になった。
「わたしの場合は中学まで、お父さんがダーリンだったからね」とミホは言った。「初恋っていうとお父さんになるかな。カッコ良かったよー。もうね同級生がくだらなく見えて、いやでいやで」
「ミホちゃんでもそういう時があったんだ」と私は言った。
「田中にミホちゃんの何がわかるの?」と真由が頬っぺたを膨らませる。
「音楽をやっててね。いつもピアノかギターを弾いてたよ。ビートルズ、ジョンレノン、ボブディラン、ドアーズ、カーペンターズとかね、そういうのがいつも家に流れてた。『ストロベリー・フィールズ・フォエバー』とか好きだったな。あと、ジョンレノンは今でもお気に入り。お父さんは眠る前にいろんな歌を静かに歌ってくれたよ。でも弱い人だったから、会社勤めには向かなかった。いつも打ちのめされて帰ってきて、休日には音楽に没頭して煙草をひっきりなしに吸ってた。お母さんはそのことでいつも怒ってたけど、わたしは今でもお父さんが好き。そんなとこかな」とミホは言った。「中学の時に他界してしまったけどね」
 何か言える言葉がないか、頭の中を探したが見つからなかった。
「久しぶりに思い出せて、なんかハッピー。今日はきてよかったー」とミホが言った。
「カッコイイお父さんよね」と真由が言った。
 少し沈黙がおりて、私達はそれぞれワインに手を伸ばした。テーブルの上に新しい風を吹かせようと、無理やりだが、その根底には思いやりのこもった、ありがちだが誰をも責めることのない冗談をしばらく行き交わせている途中で、ミホが天井を見上げた。クリスマスソングが切り替わり、人間味のある声が先導する曲に店内が包まれた瞬間だった。ジョン・レノンの「Happy Xmas(War Is Over)」だった。鈴と子供達の声が入ってくるところでミホは目を閉じた。天国から父親の声が降ってきていて、それに耳をすませている、という風に私には見えた。テーブルの上に置いていた、銀色に光るジッポを手でつかみ、火を点けるでもなく、しばし眺めた。
 初恋話の順番がやってきて、私は土管からお尻を突き出した少女のことを話した。市民センター裏の公園で眺めた夕陽に染まったお尻のこと、顔をどうしても思い出せないこと、かくれんぼではいつも鬼だったこと。
「小学校に入る前くらいだと思うんだけど、顔が思い出せないんだよ。お尻と土管ははっきり見えるんだけどね」
「頭隠して、尻隠さずって感じね。でもそれって初恋?」とミホが言った。
「そのつもりなんだけど」と私は言った。
「夢じゃないの?」とハルミツは言った。
 尻隠して、頭隠さず、と罵られた氷河期の夢を思い出す。なぜ私はあんな高いところから尻を突き出していたのだろう。「あいつ、頭真っ白だ」私は年老いて、白髪になっていたのか。それとも雪や氷が頭にのっていたのか、頭の中身のことだったのか、その全部だったのか。なぜいつまでもこの夢を忘れられないのだろう。
「ちょっと目を閉じて、思い浮かべてみたら?」と真由は言った。「土管から、その少女が顔を出したりして」
 目を閉じると、BGMと人々の話し声と食器にあたるナイフやフォークの音が重なって、空間に存在する生々しい音の塊となって高まり、耳に迫ってくる。イメージは何も浮かばず、目の前は真っ暗だった。
 私は暗闇の中にいた。まぶたの裏なのか、自分の孤独のせいか判別しない黒い闇。何か祈ろう。例えば、仏教徒や無宗教の人々や、ひとりでクリスマスを過ごす人々や、クリスマスに関心を失った人々に。
「どう?」と暗闇の中に温かい声が、雑音を破って耳まで届いた。真由の声だ。私は目を開けた。赤いテーブルクロス、白い皿、料理、フォークを握る手、煙草、シルバージッポ、ナプキン、小さなキャンドル、三人の顔。真由が五本の指をグラスに絡めて、口まで持っていく。唇にグラスがついて、ワインが下り坂となって吸い込まれていく。テーブルの上に戻ったグラスの中で真っ赤なワインが左右に揺れ、次第に収まっていった。
「お尻しか見えないよ」と私は言った。
「田中はお尻が見たいだけなんじゃないの?」
「なんでばれたのかな?」
 マンゴームースケーキを食べ終わった後、真由は物足りないと言い出した。「なーんか足りないのよね」とメニューを開いている。
 私は店員が持ってきたばかりのグラスワインを掲げて、ミホと乾杯した。ハルミツは鼻の頭が赤くなっていて、脱力した口が半開きになっていた。
「ねえ、七面鳥の照り焼きを頼もうよ」と真由は言った。「やっぱりこれよね」
「いいね」とハルミツ。
「食べたーい」とミホ。
「七面鳥の照り焼きは今日はやめておかない?」と私は言った。
「今日は、って何よ。今日食べないで、いつ七面鳥の照り焼きを食べるのよ」と真由。
 私は通りかかった女の店員の脚を見た。ふくらはぎが盛り上がって宙に舞い、震えて遠ざかっていき、別のふくらはぎがこちらに迫ってくる。
「ちょっと田中。今、女の子の脚を見てたでしょ!」と真由は言った。
「やだーエッチ」とミホが言って、おふざけで頬に手を当てている。
「ひとが七面鳥の照り焼きの話をしてるのに。田中はああいう、ししゃも脚が好きなのね」
「違うんだよ」と私は言った。「関係あることなんだ」
「七面鳥の照り焼きと脚とどういう関係があるのよ」
「往生際がわるいよ、田中」とハルミツ。
「それよりさ」と私は言った。「今夜、僕に抱かれてもいい人いる?」
「ちょっとー、何ごまかしてるのよう」と真由は言った。
「しーん」とミホは言って、口を押さえて笑っている。
「抱かれたい人がいなくて、良かった。じゃあ、ワリカンで」と私は言って立ち上がった。
「ちょっと何よー、その言い方」真由は言って、唇を尖らせる。すぐに首を傾げて上目遣いになり、声色をがらりと変える。「田中さん、せめて多めにだして、お願い。その額によって、色々オプションもあるよ。エッチはだめ、エッチはだめよう。はじめのデートは手を繋ぐまで。三回目でチューよ。エッチは五回目のデートじゃなきゃだめなの。パパに怒られるもん。でも、そんなのを跳ね飛ばすくらい情熱的に求められたら、わたしどうしよう。なぜか今日は勝負下着を選ぶイケナイわたしがいるの」
「ツリーでも見にいこう、その勝負下着でさ」と私は言った。
「本当は見たいくせに」と真由は言った。「ねえ、ハルミツ君」
「うん」とハルミツ。
「ミホちゃんも今日は勝負下着?」と私は訊いた。
「あとで、確かめてみる?」とミホは言って、黒髪をかきあげる。
 コートを着て、勘定を払い、店を出るまでも絶え間ないおしゃべりが続いた。脈絡のない話に、別の話が被さり、同時に進行していく。お互いを許しあって、話題を選ぶ必要がなくなり、選べないくらいには酔ってもいた。店を出た後、観覧車に乗ろうと言い出したのはミホだった。誰も賛成も反対もしなかったが、自然とHEPFIVEに向かって歩いていた。まだ九時前だった。


つづく

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