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かくれんぼ2

 長柄橋を渡る間に、カップ酒を飲み干した。トラックが走ってくる度に橋が縦に揺れるので、何度も立ち止まった。真向かいから吹く風で息苦しくて顔を背けていたせいか、橋がいつもより長く感じた。闇に同化したような黒い川を見下ろすと胸が静まる。祖父が火葬炉で焼かれているのをガラス越しに眺めていた時の感じに似ていた。私は祖父の顔を思い浮かべようとした。火葬炉から引き出された台車の上で身動きしない頭蓋骨が脳裏に浮かんだ。静寂を求めて歩いてきたはずだったが、本当に静かなものに近づくことが危険なことのようにも思えて、私は何かものを考えるようにして、せっかくの静けさを台無しにし始めていた。
 橋を渡りきると線路沿いに進んで、踏み切りを渡り、住宅街を歩いた。東の空に黄金色をした満月が見えた。月は、日周で東から西へと進むのとは別に、毎晩少しずつ確実に東へと位置を変えていく、と私は小学校の頃に習った。月にはそんなつもりがなくとも、同時に東と西へ移動し、満ちて欠けていく。月のことをしばらく考えた。やがて黒い雲の毛先が黄金色をじわじわと飲み込んでいき、満月は消えた。
 風が木々の枝を強く揺さぶり、空き缶を転がし、コートの裾を舞い上げる。尻と頬が冷たかった。葉が擦り合う音に混じって、女の悲鳴のような高い音が聞こえる。どこかのドアや窓の隙間に吹き込んでいるのだ、と思おうとしたが、そうは聞こえなかった。交差点に出たら、タクシーに乗ろうと思った。もう歩きたいとは思わなかった。
 
 タクシーの運転手は口が曲がった男だった。酔っ払いの私が嘔吐でもするんじゃないかと監視しているような目で、彼はミラー越しに私の顔をしばしば眺めた。
「クリスマスなのに大変ですね」と私は話し掛けた。
「大変だよ。暇だし、客は酔っ払いばかり」と運転手は言った。言う時はミラー越しにこちらを見たりはしなかった。
 車が見たことのない小道に入っていった。私は彼が遠回りをして稼いでいるのではないかと邪推して訊いてみた。
「こんな道あるんですね?」
「近道だよ」と彼は言った。
 荒い運転に身を任せて、窓の外を眺めていた。暖房が全身を包み、強い眠気に襲われ始める。煙草が吸いたかった。助手席の背面に貼ってある「禁煙」の文字が目に入り、ふと後頭部を引っ張られ、目を開けると「禁煙」の文字。これが何度か続く。眠りと覚醒の間で母の横顔が見えた。冷蔵庫にマグネットで貼り付けていた紙、「禁煙」の文字を母は凝視しながら煙草を吸っている。吸い終わった母は紙を破って床に投げつけると、両手で顔を押さえた。母の三度目の禁煙が失敗に終わった日だった。煙草を吸っている母さんが好きだよ、と言って励ましたが、彼女は私の煙草の箱を握りつぶして、私のせいだと責めた。寝室にこもった母を襖から覗くと、彼女は愛好する絵本「マッチ売りの少女」を開いた上に潰れた横顔をのせて、よだれを垂らして眠っていた。
 母は物語が好きだった。小さい頃、母は枕元で絵本を読んだ。大きな声で読むので、私は彼女より先に眠ることができなかった。マッチ売りの少女、西遊記、イソップ物語、わらしべ長者、遠野物語、裸の王様、ピーターパン、セロ弾きのゴーシュ、よだかの星、アンデルセン童話、なんでもあった。物心ついてからは、母がテレビドラマや映画にかじりついて、涙を流すのを私はよく見た。誠実な愛の物語や、ロマンチックな悲劇、貧しい人間の努力や母子家庭が最終的に幸せになる物語。父と別れてから、母は夜を物語と酒で過ごした。母が優しい人間の心根を表現しているような物語で涙を流す度に、私は喜んだ。それらの物語の影響で、母はより優しくなり、小遣いを増やし、もう頭を叩いたり、八つ当たりをすることはなくなるだろう、と幼い私は期待したのだ。だが、どんな物語で涙を流しても、母は変わることはなかった。物語は物語、現実は現実という感じで、それはすぐに忘れる夢と一緒だった。土曜日の昼に、ハンバーガーを一人で食べている母に「一杯のかけそば」の話を引用して、分け前をくれるように要求すると、母は私の頭を叩いて、暗い押入れに閉じ込めた。泣き喚いても戸は開くことがなく、ついに泣き疲れた時、押入れの奥に母が隠していた板チョコが積み上げられているのを発見して、私はむさぼるように全部食べてしまって、押入れから出られなくなった。さっきはごめんね、と母がようやく開けた戸を逆にぴしゃりと閉めて、板チョコを包んでいた銀紙を奥歯で噛んで震えた。母と二人で暮らした日々が懐かしかった。
 窓の外に公園が見えた。木々に囲まれて、ブランコがあり、滑り台があり、砂場があって、隅には土管が三本積み重なっていた。
「すみません、とまってくれませんか」と私は言った。
 タクシーが公園の前で止まった。
「少し待っててくれませんか」と私は言った。彼の表情、そのひん曲がった口を見て、私は言い訳をした。「すぐ戻ります。近道のお礼ですよ。待っている間にもメーターはあがって、少しは稼げるでしょ。行き先も顔もわれているから、乗り逃げできる訳もないですしね」
 運転手の口のひん曲がりが逆になったのと同時にドアが開いた。私はタクシーを降りて、公園に足を踏み入れた。車内の暖房の後で外気がまだ心地良かった。辺りには甘い匂いが漂っていた。すぐ横に大きな工場があって、そこから流れてきているようだった。工場には大きな字で「欠かさぬパン、母の愛」という垂れ幕が下がっていた。パンの甘い香りと十二月下旬の空気を深く吸い込み、すべり台を一度滑ってから、スニーカーが少し沈む、土の感触を楽しみながら土管に近づいていった。二本が横に並び、一本がその上にのっている。右の土管の穴に、布が二枚垂れ下がっている。近づいていくと、布だと思ったものが、ジーパンをはいた脚が突き上げられているのだと分かった。土管の中にうつ伏せに寝転がった誰かが膝を土台にして、膝下を上に伸ばしているのだ。好奇心から、ノックの代わりとばかりに足音を高めて、土管に向かっていった。
 好奇心が消えたのは、膝下がこちらに向かって倒れて、スニーカーが地面につき、土管から尻がゆっくりと突き出てきた時だった。私は勃起した。小学生になってまもなく女の子のことを考えるだけで硬くなるペニスに困惑を覚えた時の、自分の中に抗うことのできない誰かが住んでいることを知った時の、乗っ取られるのではないか、という怯えをこんな時に思い出している。私は暗い公園の下で、大きな舌打ちをしていた。文庫本で顔を隠していたハルミツの姿、祖母の舌鼓の音、夕陽に染まった女の子の尻、呼び出された初恋が勃起に連動したことへの絶望と快感。何もかもが舌打ちの単音の中で重奏的に響いた気さえする。眼前で小さな尻の動きが止まる。再び、尻は土管の中へと戻っていく。私は屈みこんだ。尻は向こう側に出たところだった。
「待って」と私は言った。
 立ち上がると、ショートヘアの女が駆け出していた。公園を出て、路地に向かっている。私は彼女を追いかけた。「待って、君は誰なの?」
 目眩を起こさせるような、全く同じに見える住宅の連なりを私は走っていた。同じサイズの小さな庭、二階建ての車庫つきの家が向き合って、続いている。膝がうまく動かない。何年も本気で走った覚えがないので、走り方を忘れてしまったというやつを初めて体験していた。彼女の足が速いのか、私の足が遅いのか、たぶん両方で、彼女との距離を縮めることができない。「初恋だから、顔が見たいだけなんだ」と私は言った。細いジーパンと揺れる尻。外灯の前を通り過ぎる彼女のオレンジ色のハーフコートと黒髪。急に自省がやってくる。変態男に追いかけられているという風に彼女は思っているのじゃないか。言い訳の必要を感じて私は言う。「この勃起しているのは、そういう意味じゃないんだ」勃起のことを言っては逆効果なことに気が付く。彼女はまだそれには気付いていない。「誤解なんだ」と私は言った。「ただ誤解を解きたいだけなんだ、君のお尻で。尻と言っても、そういう意味じゃない」残された大事な思い出が粉々になっていく。昔は探したりはしなかった。隠れる人々が痺れを切らして、勝手に出てくるのを私はいつも待っていたはずだ。
 立ち止まり、膝に手をやった。白い息を吐き出しながら、離れていく尻を眺める。これで良かったんだと思った時に、足音が後ろから聞こえた。狂ったように足を繰り出しているに違いない、切羽詰ったような音だった。振り返ると、黒い人の塊がこちらに向かって来ているのが見えた。古びた木に括りついた丸裸の電球が、小さな光を放つ空間に目を凝らして、黒い塊がそこに足を踏み入れるのを待ち伏せる。光の中に、口を曲げた男が右手に棒を持って走っている姿が一瞬だけ像を結んだ。「くまな」と男は叫んだ。
 運転手だと思った。乗り逃げと勘違いしている。教育が足りないというのは、こういうことなのか。事情を話す暇なく、運転手は棒で私を殴りつけて耳を貸さないだろう。別の視点、別の立場、思いもしない事情、可能性というものにまで想像が働かない。そして、理由をこじつけて誰かを殴れる、暴力性を正当に解放できるということが、人の心を捉えないはずもない。有史以来、大げさに戦争の例を引くまでもなく、至るところで、会社で、家庭で、正義の暴力を無自覚に振りかざす人間に事欠いたことはないのです、とテレビで誰かが言っていたのを私は思い起こす。テレビは信じないが、誰だったかな?誰でもいい。私は再び走り出す。「違うんだ」と私は言った。非常事態をようやく飲み込んだという感じなのか、急に足が軽くなる。そのせいで女との距離が縮まり始める。
 舗装されていない砂利道を曲がった時、女の尻を今までで一番近くに捉えていたが、棒を持った手がまた後ろに迫ってもいた。彼女は悲鳴を上げた。「違うんだ、どっちも誤解だ。僕も追われている」と私は叫んだ。乗り逃げしている訳でも、もはや女を追いかけている訳でもないのに、私は誤解の淵を走らされている。「鎖骨を折ってやる」と後ろから声が聞こえる。砂利道を抜けて左右に道が広がるところで、彼女は右に折れた。私は彼女の後を右に折れてすぐに民家の塀を乗り越えて、しゃがみ込み、息を止めた。少し遅れて足音が塀の前を走っていった。塀の上に目を覗かせる。棒を振り回した男が女の尻を追いかけているのが見えた。


つづく

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