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「皿を洗ってて、授業に遅れました」(エッセイ)

僕が20歳まで住んでいた寮に、インドネシアからの留学生がいた。
よく共用のキッチンで会うので、しばらくしてから話すようになった。

彼と話すようになると、ひとつ面白いことに気が付いた。それは、彼がかなりの時間を食事にかけているということだ。ある日、僕は料理をしている彼の隣でカレーを温め、自室で食べ、オンラインの授業を受け、そのあと、コーヒーを入れるためにキッチンに戻った。すると、彼はまだご飯を食べていた。つまりは2時間くらいを、一度の食事に費やしていたということになる。僕はその時、彼の時間の使い方が贅沢だと思った。そしてそれが、よく言葉にできないけれど、なんだか素敵なものに見えた。


僕は22歳になった今でも、相変わらず寮に暮らしている。20歳の時の寮とはまた別の寮だが、ここに住んでいるのはほとんどが留学生だ。僕は住み込みの学生スタッフのような形で、彼らの日常をサポートしている。

さておき、やはり彼らも、時間の使い方が贅沢だ。もちろん、少なくない友人たちが、学校の課題に奮闘している(日本語の「は」と「が」の違い・日本語検定の勉強など)。しかし彼らは、あくまで僕の感覚だが、それと同じくらいに日常を重視している。たとえば土日で近隣のアジア諸国に出かけたり、富士山に登ってみたりしている。


こうした留学生たちの時間の使い方から感じるのは、自分から暮らしを作っていく力というものだ。もっとうまい言い方がありそうなので、とりあえずこういう力だとしておく。

そういえば、村上春樹がいろいろなところで書いているが、S・モームという作家は「どんな髭剃りにも哲学がある」と言ったらしい。ここでの「自分から生活を作っていく力」とは、モームの「哲学」と同じようなものであるような気がしている。自分の暮らしに自分がどういう考えや思いを持っているのか。それを基に行動するのも、行動の結果として生まれた思いに気づくのも。行ってみればこの「暮らしの哲学」であり、「力」といえるのではないか。


さて、翻って考えてみると、自分は「暮らしの哲学」を持っているのだろうか?
正直なところ、あまりそういう感じがしない。これはなぜだろう?

初めに思いつくのが、僕らの暮らしの均一性だ。つまりは、僕たちは似ているので、ついつい他人の暮らしをコピー&ペーストしてしまいがちだということ。そして、その結果、暮らしが自分から生まれてくるものではなく、「暮らし上手」や「暮らしプロ」のコピーとしか感じることができなくなってしまっている。これが頻発している気がする。

こう思うのは、僕に暮らしについて教えてくれたのが、留学生だからという事情もある。彼らは日本のあれこれから、少し距離を取ってものごとを考えている。僕にとってあたりまえな日本のモノが、彼らにとっては凄かったり、逆にダメダメだったりする。この種のやりとりを重ねていると、自分の暮らしが「暮らし上手」のコピー&ペーストになっているような気がしてくるのだ。

また、「暮らしの哲学」を持っていることで生まれるように思われる面倒への不安が、僕らにそれを持つことを躊躇させている。
たとえばの話。「スターバックスやマクドナルドを買わない」「ファストファッションを買わない」「携帯を持たない」とか、そういう選択をすると、周囲に鬱陶しいと思われるような気がしてしょうがない。これは初めにあった時間の使い方にも通じる。休日をどう過ごすのか、過ごしたいと体が感じているのか。「なんだ、そんな印象論」と言って無視してしまったほうが、友人と遊びに出かけるには都合がいい。
(しかし、これは印象にすぎないけれど、その友人も自分の「暮らしの哲学」を持つことを諦めている。だから僕たちは、互いに「暮らしの哲学」を持てないままになっているのではないだろうか?)


それでも、僕たちの中の少なくない人間は、「暮らしの哲学」を持つことを望んでいる。そして、僕もその一人だということに、最近気が付いてきた。

この間、古本屋で見つけた文庫を開いたら、こんなことが書いてあった。

もう頑張らなくていい。もう無理しなくていい。もう嫌なことをしなくていい。もう親の期待に応えなくていい。もう雇われなくていい。もう評価されなくていい。もう急がなくていい。もう大きくならなくていい。もう儲けなくていい、もう効率化しなくていい。もう経済成長しなくていい。そして、たくさん悩んだっていい。悩みを楽しめばいい。

髙坂勝, 2014, 『減速して自由に生きる ダウンシフターズ』, ちくま文庫, p.88-89.

一見するとこれまでの内容と関係ないように思うけれど、ここで彼が言いたいのは、「暮らしの哲学」を自分で作っていこうよ、という話ではないだろうか。ここで「もう○○しなくていい」というフレーズに収められているのは、「暮らし上手」「暮らしプロ」のメッセージであり、それは、言ってしまえば、「暮らしの哲学」を自分で持ち合わせている(ように見える)人やモノだ。彼は自分の暮らしが、そういった人やモノのコピーとして存在することに、耐えられなかったのではないだろうか。僕は彼が、単なるアナーキストや反抗期の子供ではなく、「暮らしの哲学」を作りたいと思っている人間に見える。そしてそれが素敵だと感じた。


だいぶ粗いスケッチになってしまったかもしれない。いずれにせよ、最近はこういう風に「暮らし」を捉えている。

そういえば、この間、大学の授業に遅刻してしまった。
出席を取らない先生だったが、もし訊かれたら、
「昼ごはんの皿を洗っていて、遅れました」と言ってみたいと思った。
遅刻の理由はいろいろ考えつくだろうが、僕はこれが一番気に入っている。すいませんが、暮らしのせいで遅れました。



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