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【日記】2024-4-26 多様性・カテゴリ・戦闘とデモ

1.多様性と「Tシャツの喩え」

友人たちとの昼食の時間に、何かのきっかけで多様性の話になった。そのうちに、「Tシャツの喩え」というものを思いついた。こんな具合だ。

いま、世の中に流通しているTシャツの色が、10色から15色に増えた。これは、洋服の多様性をおし拡げたと言えるのだろうか?

単純に考えれば、言える。けれど、その多様性の拡げ方は単調すぎる。
例えば、15色のTシャツが、すべて丸首の半袖であったとしたら?これをVネックにすることも、長袖に、七分袖にすることもできそうだ。もしくは襟を付けてポロシャツにしてもいい。
色にとどまらず、こうした工夫も、多様性の拡げ方になるだろう。

この喩えから、何かを「多様にする」やり方には、複数の方向があることが分かる。そして、複数の方向を持たせることが、「多様性」という言葉に奥行き―もっと言えば、内実―を与える。そう思われる。

2.カテゴリのもつ強さ・怖さ

最近、ほんとうに多くの場所で、「MBTI診断」や、「自己愛者」「発達障害」などの言葉を耳にする。サンプルに偏りがあるかもしれないが、自分の周りでは、毎日誰かしらがこのような話をしている。

これらの言葉が与えてくれる安心感といったら、キリがない。世界がグンとわかりやすくなるのだ。例えば「私はINFPです」と言えば、「なるほど。菊池くんは内気で、空想が好きなんですね」となり、円滑な相互理解ができる。これは中毒的に便利だ。
また、これらは「自分が誰か」を指し示すのにも使いやすい。僕は「INFPのすべて」のようなwebページを眺めるとき、自分が何者か、手に取るようにわかる気がしてくる。
カテゴリは、こうした魅力を持っている。

しかし、時としてカテゴリは、僕たちの個別の人生を貧しくさせる。

僕がいつも思うのは、カテゴリをつきつめていくと、僕はいらないのではないか?ということだ。例えば僕のカテゴリを挙げていこう。地方出身、日本人、大学生、男性、早稲田大学に通っていて、バイトをいくつかしている…、MBTI診断では、いっつもINFPと診断される…。
考えてみれば、辺りには、このような人間がゴマンといる。もし僕が世界をカテゴリに沿って考えるならば、僕は具体的な他人もいらないし、具体的な自分も必要としない。そこにあるのは、ただカテゴリを押し付ける道具としての、カラカラに乾燥したモノの群れだ。
だから僕は、そういうカテゴリを「コミュニケーションの便宜のため」のみに使って、決して自らを委ねることはしない。そう改めて思った。

※ところで、友人との会話では、「感染症や病気」が、悪しきカテゴリの例として挙がった。たとえば、ある病気「A病」の患者は、森の中にある特別な病院に収容され、そこで一生を過ごすとする。すると、街中にいる人間たちは、「A病の存在を知っているが、A病の患者を具体的には一人も知らない」状況になる。
そんなある日、街で男が傷害事件を起こし、逮捕された。逮捕後の調査で、彼はA病にり患していたことが分かった。すると、街の誰がは「A病に罹った人間は、凶暴だ」と思い、そのアイデアを周りに拡散するだろう。先ほども言った通り、街の人の大部分は、直接の知人にA病の患者がいない。だから、「A病=凶暴」というアイデアが反証されることなく、なんとなくのイメージで街に広がっていく。
極端な例かもしれないが、こういうことは、日常にありふれているように思う。僕もどこかで、これと同じようなことを実行しているに違いない。

3.戦闘・デモは悪なのか、後ろめたいのか

★ガザでの戦闘やウクライナの戦争に関して、僕はずっと「ただもう誰も死ななくていいんじゃないか?」という点を第一に考えている。以下ではデモに関する話を書くが、僕はデモを賛美しているわけではない。「『デモが絶対的に悪い』というイメージは、間違っているかもしれない」ということが言いたい。政治にかかわる話なので、この点はあらかじめ書いておく。

ガザの戦闘が続いていて、また、人が亡くなっている。
ここ最近では、エドワード・サイードが教授を務めていたアメリカのコロンビア大学などで、親パレスチナの抗議を行った学生などが逮捕されているそうだ。
僕はそのニュースを見たときに、「いつから僕は、『デモ』という言葉に対して、ネガティブなイメージを持つようになったのだろう?」と思った。
そう、僕にはなぜか、『デモ』に対して、「後ろめたいこと」というイメージがあった。これが何に起因しているのか、いまいちわからない。しかも、自分でその理由を考えてみても、ほとんど思いつかない。(強いて言えば、デモのニュースを読み上げるキャスターの声色が、大谷翔平がホームランを打ったニュースに比べて、比較的淡々としているということくらいだ。それは事件のニュースと同じくらい、淡々としている。僕がアルバイトでニュースを読むときにも、これを再生産している可能性はとても高い)

そこで思うのが、これも実は、カテゴリ的な思考である可能性だ。
僕はデモを一般論でしか知らないのかもしれない。それこそ、「デモ=後ろめたい」というもは、「A病=凶暴」のアイデアの変種にすぎないのではないか?そのように考えてしまう。

答えは出ない


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