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詩についての考察(メモ)

私にとって、詩の執筆と写真の撮影は質的に似ている。写真は特定の瞬間におけるモノを記録し、詩は特定の瞬間における自分の感情を記録するからだ。

すると私は感じる。詩はノン・フィクションではないか?と。
写真が編集を経ても被写体を記録しつづけるように、詩はいかなる言語表現を使おうと、執筆の動機になった感情を残す。そしてこの感情は、日常生活の中から生じている。このため、詩はノン・フィクションであるように感じる。

これを踏まえると、詩を要素に分けて考えることができるようになる。すなわち詩には、①詩のもとになる感情と、②言語表現が存在する。加えて、詩人がどのような感情を詩に残すかを決めているという点からは、①を精査する能力、というものも存在する。詩の要素はすくなくとも三つ存在する。

(この要素の分解を写真で例えてみると、次の通りだ:①写真に収めたい場所や瞬間を見出し、実際にシャッターを切り、②その写真の明るさや色を編集する)

詩の要素分解によって、いくつかのことが分かる。

1.他人が書いた詩を読むのは難しい。
これは言えそうだ。なぜなら他人が書いた詩は、要素②のみが見えているだけで、読み手は要素①を手探りで想像するしかないから。同時に、自分の詩を最も理解できるのは、要素①を知る自分ということになる。

2.詩の書き方を他人に教えるのは難しい。
これも言えるように思う。つまり、コーチングで要素②を教えることはできても、要素①は狙って教えることができない。例えば部活動で、「一緒に居て楽しい人間」を育てることはできないように。要素①はかなり属人的なものであるように見える。
(この喩えで言いたいのは、特定のアクティビティの上達を目的とした「部活動」で、「人間性」を「意図的に育む」ことは難しいのではないか?ということ。当然、「部活動をする人間というものは、一緒に居て楽しくない」と言っているのではない。)

私が詩を書くとき、こういった前提がある気がする。

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