なぜ書く・つくる・不安がる(日記)
なぜ書くのか。なぜつくるのか。
なぜ常に動いていないと不安なのか。
書くことで、認めてもらいたい。
書くことで、僕のことを知ってほしい。
そうすれば、僕は、永遠の命を手に入れることができる気がするから。
偉人はとても幸せに見える。
彼らは誰かの中で生き続けているから。
それが羨ましい。ありえないほど、羨ましく感じる。
死ぬことが許容できないから、書いている。
ならば、死ぬことを許容できてしまったら、筆は止まるのだろうか。
なにか、
筆が止まるような予感がして、僕は自分の死に向き合うことができない。
死に向き合ったら、どうなるのだろうか。
そのとき、
特別になりたいという思いを諦め、
あたたかい人びととものごとの中で
のらりくらりと暮らしていくこと。
それが(傲慢に聞こえるかもしれない)
やろうと思えば
できてしまいそうな自分がいる。
そして、
社交の場で踊る
ご機嫌な自分を見つけたとき
僕はとても
自分を恥じる。
これじゃ特別になれないんだよ、と吐き捨てる。
この
特別になりたいという思いは
やはり、
自分の死を見つめていないから生まれるのではないだろうか。
そうすると
書くことも作ることも
特別になるための手段だから
やるのか。
そうなのかもしれない。
もし誰かがぱっと現れて
こういう風に問い詰めたら
僕はどうなるのだろう。
それが不安だから
僕はつくるとき、人と繋がらないのかもしれない。
死ぬことの何が怖いのだろうか?(反語的な意味あいではなく)
死ぬことで、忘れられることが怖い。
無名戦士の墓のようなところで
僕というひとりの人間が
完全に忘れられるのが怖い。
誰も僕のことを覚えていなくなったら
僕は完全にいなくなってしまう。
完全にいなくなってしまうことが怖い
完全にいなくなること。
死んだ後の僕だから意識はないし
周りの誰も、彼のことを覚えていない
そこでも地球は地球のままかもしれない
それが受け入れられない。
それの何が許容できないのか?
僕が完全にいなくなってしまうことが許されていることが許せない。
どこかが変だ。
僕の中のすべてが 灰になって
そこから意味が消えてしまうこと
意味などもとからなかったこと
したがって 自分に価値などなかったことが許せないのか?
自分に価値などなかった、というのは、
「自分の価値が相対的に低い」ということではなく、
「自分と誰かを相対的に比べる行いそのものが不可能である」ということへの気づき。
意味というものへの裏切り。
それが怖い。
自己啓発をする。切実に生きる。より高い方へ登っていく考え方は、そうでない人への差別感情を中に含んでいるような気がする。
上昇気流。上昇しなかった人間を低く見積もって、安心する。自分は救われている人間なのだと安心する。安心の材料は比較によって生じている。
意味はここから生まれている。
だから、この尺度が通じないこととなる前提が
受け入れられない。
つまり、僕を(良い方向に)意味づけているたくさんのものごとが、
僕が灰に帰り、完全に忘れられることを前提にすることで、まるっきり無化されてしまう。
僕が最終的に完全にいなくなる状況を受け入れると、いままでの僕が完全にいなくなってしまう。
これが、僕が完全にいなくなってしまうことを許容できない心の仕組みだ。
結局の問題はこうだ。
アートは僕にとって目的なのか、手段なのかということだ。
こうした文章を書いていると
すぐ
自分の欠点を並べて
その欠点を持たない人間を引き合いに出すことにより
自分がそうした人間に近づこうと決意表明することで終わる
だがそれがいけないのだ。
それは意味の上での話だ。
意味としてより善い人間になることはいくらでもできる。
だがそれは
突き詰めていけば
人造人間と変わりがない。
それに
より善い人間になったとて
意味が生まれるしくみが温存されたままでは
僕は依然として この不安を抱え
それをもっと見えないようにするだけだ。
痛みを忘れさせる文明の中で自己暗示をかける人間
これまでの僕の対処法は間違っていたのだろう。
偉人に意味はあるし、価値はある。
だが意味と価値の尺度が生まれる構造を変えることができるのは、
できる可能性があるのは、自分自身しかいないのではなかろうか。
話を戻す。
アートが目的なのか手段なのか
それを言葉の上で「目的だよ~」と言うことはたやすい
だから言わない
それが手段だった場合
そのアートを止めればよい
僕はより目的に近いものに自分の個体時間を使って生きるべきだ
むしろここでは
かりにそれが目的であった場合に
それがどうなるかを考えてみたい。
そこでは
乗り越えて、理解したような感じの人間が
世界に開かれること
他者と繋がることを説いている。
僕が分からないのは
世界に開かれることと、依存することの違いだ。
理解したように見える 凄みのある 彼らは
もう何の心配もなく 世界に開かれているのだろうか??
そんなことがありえるのか
それはもう 悟りの境地ではないか
そんなの人間を超越してはいないか
平たく言えば それって本当なのか?
世界に開かれるのは 僕という個人だ
僕と世界というその二つを
どういった形で 今に立てるのか
それが気になる
それができるのか?
そしてその世界の中には
他者が立っていることだろう。
目とか鼻とかもろもろの器官の総和と、プラスアルファを持った
顔が
僕を捉える
そうした他者と繋がることと
依存することの違いは?
僕の下の方には
他者に覚えていてもらいたいという渇望が居座っているが
この場合、他者は手段でしかない。
他者は紙と同じだ。
僕という意味を写し取っておくための、紙。
だけどさっき、僕が知ったのは
意味と価値は一つのゲームにすぎないということだ
(僕はいつか完全に消えるのだから。)
それでは、
他者を愛すること
愛すること
存在をそのまま肯定すること
これは何だろう。
愛をもっともらしく語るときの僕は、
「きみの存在をそのまま肯定することができている」という自分に陶酔しているのではないか?
そして、「そういうことができてしまう可能な僕は、価値として優れた存在なのである」であると自己暗示を強めている。このときの僕は、他者を自己評価を上げるための手段として扱っているにすぎないんじゃないか。
そういえば、
愛することと
ドラマを見ることの違いはなんだろう
僕は他者の一回きりの苦しみや経験を、
おもちゃのようにしているのではないだろうか
たくさんの固有の意味を読み取って
感動したくて感動するドキュメンタリーを見るかのように
人間を遊び道具にしているだけではないか?
他者とうまく共生するとは どういうことを指すのか。
相手を面白がるというのは、相手を手段として扱っていることとどう違うのか。
こういう、全般的な自己の矛盾と欠落について、
どこかで赦しを得られるのではないかという期待がある。
聖母のような人がやってきて、腕で抱きながら
「あんたは悪くないんだよ~それが人間ってもんさ」
と言ってくれるのを、明らかに期待している。
言葉ではそういわなくても、スクリーンを見る目がそう言っている。
となると、
こうして何かを「告白する」という行為すらも、赦しを読者から潜在的に得ようとしているだけの意味の遊びのように見える。
しかも、僕は特別だと思われたい人間だ。
「こんなに内面を掘り下げて書くことができる自分には、文学的な資質があるに違いない!」という自己証明がしたいだけなのかもしれない。
最後に、
ここまで書いた矛盾をもし克服したとき、
僕はそういう「超人」「仙人」「スーパーマン」であることを、そうでない他者に見せびらかさないのだろうか?
意味と価値は一つの構造だ。
だから、この日記もフィクションということにする。
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