見出し画像

土の声がする

今日、造園の仕事で公園の除草(草むしり)をしていた時の事。

雨に降られ合羽も着ずに泥どろの手で草に触れていたら、雨の音に混じって土や植物たちが大声で騒いで何か言っているような感覚に陥った。
それは一種の瞑想状態に近いような感覚で、体が土の一部になったかのような、それでいてとても心地いい気持ち。ずっと感じていたい感覚。
土、落ち葉、ダンゴムシ、水、微生物。無数の命が体に振動となってズビズバと響き渡る。

実際なんと言っているのかわからないが、言葉にもならない声をあげていた。うわああ〜っとみんな騒いでる感じ。何かを訴えていたのか、それとも歓迎されていたのか。人間としての尊厳とか意義とか自我とか全部取り払われてオギャ〜と泣き喚く胎児の状態。思考や説明、分析を拒絶するかのように、それは騒いで叫んでいた。

現代人(自分も含め)は土から離れてから大きく変化してきたように思う。
土の上にアスファルトを敷いて、デカい建物を建てて、車を走らせて。
目に見えるものだけを信じて、人間だけが正しい答えを提示するものだと信じきっているから、人を見て、人から学んで、人を傷つけ傷つけられる。
養老先生は 「みんな人を見過ぎだよ。そりゃ疲れるに決まってる」と言ってる。
かつて人はいつでも土と共にあって、動物や植物も含め、お互いのテリトリーをうまく保って共生していたはずだった。
だけどいつしか人間にとって不都合なことは人間の力によって勝手に変えていいってことになってる。土になんの相談もなく。

田畑を耕したり火を起こしたりすることで生の営みを作り上げると同時に、実はそれによって土と対話していたんだろうし、それを人間は本能的にわかっていたはずだ。
なんかすごい宗教くさいけど、実際そうだったんだと思う。

人間だって自然物である。人間が人間としか分かり合えないと思っていること自体がおかしい。人間だってこの地球の大部分を占めている、もっと言えば母なる存在である土に抱かれて生きているわけで、話ができたって不思議じゃない。

昔の人が妖怪や精霊、天狗や神隠しが見えていたのだってなんらおかしくないし、それをオカルトや怪奇現象なんて言葉でさらっと片付けてしまうのは味気ない。

いつだって言葉だけじゃない、頭だけじゃない、体で感じる、五感で感じるってことが大事なんだと思う。土や花の匂い、鳥の声、頬にあたる風の冷たさ。コスパタイパより、そこで感じとる永遠のように地続きの一瞬を感じれるかどうか。空、大地、夕暮れバーン!みたいな。うわあめちゃくちゃ生きてるううううぅ、生命ドーン!!みたいな。

先日訪れた伊勢・熊野の海や山中で感じたまがまがとした自然の生命力が、実はなんてことない東京の公園でも鳴り響いてるというのを感じた一日でした。そんだけ感覚が土に近づいてるのかも。

そうすると造園という仕事はある種(部分的には)自然を殺す仕事でもあるしなんともなんだが、仕事しながら自然に触れたり話したりできるからいいかと割り切ってやっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?