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横浜再発見

横浜には縁があると思っている。

何故なら現在の職場が横浜であり、東急東横線沿いの街にも住んだことがあるからであるが、それ以前にも何度か一人で訪れている。多くの人にとってそうであるように、横浜はお洒落で綺麗な観光地でありながら、観光客もそれほど多くなく、歴史もあり、特別な浪漫を感じさせる海の見える街である。(ここでいう横浜はみなとみらい、桜木町駅付近の所謂観光スポットの『横浜』である。)

子供や学生の頃から中華街や元町、山下公園や、赤煉瓦などわかりやすい観光地は一通り訪れているし、社会人となった今、ここ横浜で友人の結婚式に参加したり、レストラン船マリーン・ルージュで横浜の夜景とかもめを眺めながらお食事もしている。夕焼けや夜景には何度も感嘆してはいるものの、あまりにも日常に馴染み過ぎて個人的には特別感が薄れていたのも事実である。

しかしながら、今日は新たな発見があったので、何だか横浜について書きたくなったのである。

私にとっての横浜の魅力は一言で言うと、異国感とその浪漫溢れる雰囲気である。景観だけを見てもとても美しいのだが、海と港と船がすぐそこにあり、恐らく明治時代に日本に先駆けて馬車道を作り、煉瓦造りの西洋風の建築物を作り、汽車の為の線路を作り、外国からの船を受け入れた名残が訪れる人をわくわくさせるような雰囲気となって街を包み込んでいる。しかし、これらの私が横浜に抱く印象はいずれも勉強したわけではなく、知識の浅いまま色々見聞きしている中で何となく、感じている浪漫であり、事実に基づいたものであると言う確証はなかった。そんな私が、初めて「JICA横浜 海外移住資料館」(無料)を尋ねてみたのである。

正直言って、移住と言うから海外から日本への移住者や難民の資料館ではないかと思って、特に覗くこともなく何度も前を素通りしていたのだが、たまたま夜の予定までに時間が空いていたのである。特に期待もせず中に入ってみて驚いた。日本への移民のその逆で、日本から世界各国への移民の歴史や資料を展示した博物館だったのである。

日系移民に関しては、家督を継げない農家の次男三男が国や県から送り出され、ブラジルやハワイなんかで世界大戦中は日系人強制収容 に閉じ込められつつも生き延びた人々というイメージがある。アメリカ留学時代には、現地の英語教師に日系人は昔よく白人の家の植木屋をしていたよ、と教えてもらったり、日系のキリスト教教会の方々にも本当によくしてもらった。さらに、イブニングドレスを着てサンフランシスコを拠点とした日系人コミュニティのオークションパーティ(お金持ちの日系人で私がお話できた方には不動産をやっている人が多かった)や、日系人だけでなく現地に進出している日本企業、日本人起業家や社員たち、留学生なども関わっているお祭りに参加したこともあった。当時のインターン先の仕事の関係で、サンノゼ日本街にも何度も訪れた。

それらに加えてとてもとても強く印象に残っているのが『The Four Immigrants』という四人の日系移民の話を書いた漫画を原作にしたミュージカルである。日系移民が苦労をしながら労働に精を出し、差別と戦いながら、そしてある男は戦争中米兵として連合国軍側で戦ったりしながら、激動の時代を生き抜いた日系人たちーむしろ確か彼らは日系一世なので日本人と呼んでもいい気がするーの話であり、大きく心を揺さぶられた。(ちなみにベトナム戦争後アメリカへ移住したベトナム系移民の物語を描いた『Vietgone』というミュージカルも素晴らしくて、『The Four Immigrants』と同じで最小限のキャストで(白人からアジア人まで)色々な役を演じるスタイルで本当に感動した。こういうキャストのレベルの高さや情報量の多さ、物語のスピード感や何よりめちゃくちゃ面白いのにじっくり泣かされ感動させるような、こういった感動は日本の舞台で得られたことはない。)

また、移民ではないが私の祖父が戦後アメリカへ農業を学ぶという目的の文化庁か何か企画で数年留学をしていたこともあり(父の誕生時、祖父がアメリカに居て、何もしてくれなかったというのは祖母がいつも語ることである)、まあとにかく何が言いたいかというと、とてもとても個人的には興味のあるトピックだったのである。そんな日本全国の移民たちが、日本を旅立ったのがここ、横浜であった。

資料館の内容はここで細かく述べることではないが、今のようにインターネットやテレビがない時代に、最短は3年といえども、どうなるかもわからない船で祖国を離れ、異国で生きる覚悟を決めた人々、とにかく厳しい環境でも懸命に働き、差別と戦い、その土地で生き抜いた日系人の歴史には驚嘆せざるを得ない。勤労な日系人が徐々にその土地で成功し、仕事を奪われるのではないかとアメリカ人に疎まれていたのは知ってはいたが、戦前、世界恐慌の直前に(やはり人々に余裕がない時代であったことは間違いないが)排日運動が起こるほどハワイやアメリカに大量の移民が送られていたのもあまり私が知らなかったことであった。今では他のアジア諸国(中華系は勿論、韓国、ベトナム、フィリピンなど)からの移民の方が、日系移民や日本人在住者よりずっとずっと多いのが体感としてあった為であるが、流石に文化を形成できるほど日本人がアメリカに渡っていたことは間違いはない。(日系以外のアジア人は家族親類館の繋がりが強く、商売に長けているという印象もある。)また、個人的には戦争花嫁と呼ばれる大戦後に駐日米兵に嫁いだ日本人女性の数が予想以上に多かったことも、ブラジルへの移民が戦後まで続いていたのも驚きであった。

とにかく、多くの日本人・日系人にとって、異国へ旅立つ前の最後の祖国の地であったかもしれない横浜から、私がこの街に何となく感じていた浪漫の理由へと繋がったような勝手な感動と発見があったのである。日本人として世界を訪れると、先人たちや現地の方々を見て、どんな状況でも私たちはある程度真面目に働くので、ある程度の暮らしは維持できる、生きていける、やっていけるという謎の自信が生まれる。海外で日本人・日系人のホームレスやドラック中毒者など見たことがないのである。所得の差こそあれど、みんなある程度の平穏の中生きているような(勝手な)印象を受けるのである。

海外で日系文化に出会ったことがある人なら、一度は訪れてほしい「JICA横浜 海外移住資料館」であった。因みに赤煉瓦前の「海上保安資料館横浜館」も同じく無料で北朝鮮の沈没した工作船(案外最近の出来事で世界は平和ではないことを実感する)も寄ってみたのだがお勧めである。銃弾の跡が生々しい。(日本の領海であるのは間違いないのに、海上保安庁が威嚇射撃を繰り返した後に、工作船からの攻撃を受けてから初めて正当防衛として射撃をしているのも成る程な、と考えさせれた。因みに沈没の理由は自爆であり攻撃ではない。)

さくっとカフェで書いたつもりだったが思った以上に熱が篭ってしまった。慣れ親しんだと思っていた横浜再発見、良いものである。


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