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湯治

生まれて初めて、湯治に箱根に来ている。と言っても、土日休みの一泊二日である。

いつも休みの日があれば予定を詰めまくり、リラックスした観光などしたことがない。先週末もそうして遊んで、身体に無理が来ていたのだろう。月曜の夜から風邪をひいていて、それが何となく今日まで続いている。そして、本業では、遂に成績不振で私の業務内容が変更になってしまった。やっと、成績向上のためのロジックを理解したと思ったのに、自分のやり方を変えるのが遅過ぎた。愚かだなと思う。悪い意味で、目立つのは苦しい。心身ともにぼろぼろだった。

甘え以外の何物でもないだろうが、ここしばらく気分が沈んでいる。生きることに対して迷子である。自分が一体何を目指して働いているのか、わからなかった。心身が弱れば過去に飲まれる。小さな後悔と苦しみに取り憑かれて、今に集中できなくなってしまう。身体のだるさが回復しても、喉の違和感が取れなかった。

それで、金曜の夜に、この宿を予約した。

過去数年間、月の家賃をぎりぎりで払いながら、この暗闇にいたことを思えば、今は自分で養生の為に宿を取れるようになり大した変化だと思う。子供時代には憎しみに囚われていたから、生きているうちに起こることは誰かのせいではなく、全て自分の責任と考えられるようになったのも、良い変化だと思う。また、その思考に逃げることで、自分が至らない存在だと思い込み、無能感と無気力に取り憑かれることも、もう経験済みで、過去に置いてきた。

自分の在り方に疑問はなく、心から自信もある。例えば会社の成績が悪くなったぐらいでは、自分に価値がないと思い込んでしまうようなことはもうない。今所属している組織に必要とされなくても、充分に社会で誰かの役に立てると思っている。私はとても独特で、良い言い方をすれば特別で、苦手なことも多いけれど、それで充分である。そして、誠実と優しさを良しとする人間でありたいと願っているし、欲と自我にまみれてはいるが、その自分自身の人間味を楽しみ、他人を愛し、私はそんな自分を受けいることができている。

それなのに、心は何となく沈んでいる。迷いの中にいる。自らの過去は決して浄化されていないし、私は思考に囚われる俗物のままであり、何より生きている目的がわからないままである。

父が亡くなってから、私はただ生物として生まれただけでなく、この世の全ては縁があって繋がっているとか、何かしらの存在の理由を漠然と理解するようになった。だから今の私は生きることを全うしようと考えている。

それまでは、生まれてしまったことを恨んでいた。痛いのは嫌いだし、臆病であり、かつ周囲の自分を愛してくれている人たちの絶望や悲しみを誘発するようなことはとてもできないと思っていたため死ぬことはなかったが、人は皆いつもずっと苦しくて悲しくて仕方がないのに、時々得られる喜びや幸せの幻想に囚われて、その禁断症状の中、生きることを選択している。また、生き続けることが正しいという社会の概念に逆らうことなく従っているだけである。などといった独自の理論を脳内で展開し、それで納得して生活していたのである。詳しくそれを口に出せは周囲にドン引きされたり、悲しい気持ちにさせるのであまり言うことはなかったが。

その当時は思えば常に不安に囚われ、苦しみと悲しみの中で生きていたのでそういった思考になったのだが、そうでないと思っていた今も、本当に一瞬で当時の思考に戻りたがるのである。そうして過去に囚われ気づいたら沈んでいる。生きるのがとにかくとにかく面倒くさいのは変わらない。

生活水準も地位も何もかも高ければ高いほど良いと思っているし、妙な野心や向上心は健在ではあるのだが、とにかく面倒なものは面倒である。どうやって理想の自分に辿り着けばいいかわからない。多分その慣れていない思考や行動をすることに怯えている。だから私はいつまで経っても会社員であり、この心の抵抗や無自覚の恐怖感を乗り越える勇気が足りていないのだろう。その努力がうまくできていないから、生きるのが面倒と感じているのかもしれない。この一般道からはみ出ることに対する怯えはどうしたらいいものか。私自身の自己発信欲と怠惰が攻めぎあっているのでなんだか複雑なのである。きっと。

心がぼんやりと沈んでいても、こうして書いたり考えたりできるのは、他でもない旦那さんの存在のお影でもある。生きる上でその存在に大変救われている。私が子供に帰りたい時に、不安に取り憑かれた時に、触れ合える人がいるのは何と有難いことか。

また、都会で息が詰まって、こうして緑と海と川と温泉に視覚触覚、浄化されに来れば自然のありがたさも身に染みる。東京から横浜を超えた辺りから、日常を置いてこれるのでもう一気に心が軽くなる。箱根につけば観光客の多さに(と言っても渋谷とは比べ物にならない)に少し辟易とさせられたが、それもまた一興で、荷物は重いのに私は既に癒されていた。

こうして来てみればー交通関係の音とはどうしても切り離せないぐらいの場所ではあるがー自然浴は間違いなく健全な生き方に必要である。放っておけば心は腐る。

断っておくと、便利で常に刺激的な都会の生活も間違いなく愛している。知り合いや友達は多いのに、お互い生活には踏み入らず、他人との距離が絶妙なのもまた都会の良いところ。この世は一人で生きるには私には孤独過ぎるので、都会好きの旦那さんがいてちょうど良いバランスである。

さて、うだうだと悩みやら持論やらを綴ってしまったが、やはり書くことは楽しいものである。結局小説など設定を考えただけで一ミリも書き進んでいないが、とある文芸賞の為に詩は書いた。言葉並べるとまあ楽しく心が楽になるものである。詩とエッセイで生活できて、役者なんかやれたら最高なのだが、それには如何せん才と努力が足りなさそうだ。

私は凡人であることを恐れ、同時に凡人であることに安堵し執着しているのだろう。

本業で成績不振のため、夜の仕事は最小限までに抑えたい。そこで、勇気を出してお店のオーナーやママにその旨の連絡をしようと思って、まずはメッセージの下書きをした。一晩寝かせて、落ち着いて、良い気を込めて、前向きに送信しようと思う。私は人を失望させたくなくて、断るのも苦手で、過去何もかも長続きしたことがないという負目が常にあり、この瞬間を常に恐れていた。しかし、普通に考えて、私の生活を支えてくれている大事な本業に支障を来すのは間違っているし、心身共に負担が大きいのは認めなければならない。勇気を出さねばならない。

その他、近々レイキヒーリングを習う予定である。とにかく癒したい、浄化したい過去や思考があるのと、私自身の単純な好奇心、特別な存在になりたいとの欲、そして人生のこのタイミングで出会ったことで迷わずに習うことを決めた。依存をするつもりも、私がそれで生まれ変わるというような夢物語もないが、素直に私の人生を良い方向に導いて欲しいと願っている。

遠慮がちに、怯えたままで、期待している。


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