見出し画像

ブラームスの小径で我が子を捨てた

「ブラームスはお好き?」
誰かがそう問いかけた。頭の中でこだまする。分厚い雲が流す生暑い風がシャツと汗になった肌とを密着させる。腕の中で眠る我が子はこれから自分に襲いかかる運命に知る由もなく寝息を立てている。

人権大国日本が聞いて呆れるね。互いに孤児院で生まれ育ち、煩雑な手続きを何百と乗り越えて医療系の教育機関にたどり着いた。莫大な奨学金を得るために血を吐きながら努力し、今度は返済するために命を削って労働しなければならないらしい。そして同じ境遇の彼と傷を舐め合ったのはもはや必然。当たり前のようにお腹から命が落っこちた。しかし…タイミングが早すぎたよ…キミ。
これから置き去りにする。我が子を。

初めて彼と待ち合わせたフォンティーヌ通りはあの頃のまま。何も知らないチョコレートの塊みたいな噴水が悪気もなく水を延々と吐き出している。

「ここはかつて明治神宮から流れる川の支流だったんだぜ」
思考停止の末、現状を打開するにはあまりに無力なトリビアが脳裏に浮かぶ。そしてナイフとフォークを握ってウンチクを語る笑顔の彼が、とても今自分の横にいる男と同一とは思えず泣きたくなった。あのとき訪問したレストラン…何て名前だったかな。頭の中の情報リンクがバグってる。どうでもいい記憶の引き出しがめちゃくちゃに開閉されるのがわかった。

ぬいぐるみと一緒に眠っている我が子は、きっと世界の片隅に捨てられたことを理解し、烈火の如く生を叫ぶに違いない。でも大丈夫。これは言わばモラトリアムの入り口だから。あと1年で国家資格を取得し、医大生のこの人と経済的にも自立して…働いて…それから…えっと…え…っと…この子を迎えに…

せめて水しぶきが当たりにくい場所に我が子を置こう。せめて今はゆっくり寝かせてあげよう。自分なりの親心だ。おっといけない、お気に入りのぬいぐるみを忘れるところだった。

「1年で迎えに来れらるって」彼の言葉が右耳から左へと流れていく。ここは初めて彼と歩いたデートコース。ブラームスの小径。そうだ、この通りにあるフレンチレストランで川のウンチクを聞かされたのだ。店前のブラームス胸像は何も変わらず憮然とした表情で私を睨む。そんな目で私を責めないで…

「ブラームスはお好き?」
はて?私の横にいるこの人の問いかけだったのかしら?現実から逃避できるなら何でもいい。今まで押さえていた記憶の扉を全て開放し脳内ショートしたい。ブラームス胸像のバックに広がる店内の灯りが目に飛び込んできた。シルバー食器が宝石のように輝く。確か…1番窓際の…2人席。やはりこの人との食事だった。

「フランス小説だよ」
そうだった。これは私への問いかけではなく小説のタイトル。この作品の翻訳家とレストラン初代オーナーが、ブラームスの音楽を愛しオープンさせたのがこの洋食店。そしていつの日か誰かがこの通りを「ブラームスの小径」と呼ぶようになった。

「今日という日を忘れないよ。そうだ!記念日はここで食事しよう。…ああ、天に誓って忘れない」

なんだ…。あっという間に疑問は解け、カビの生えた思い出が金魚のフンのようにくっつきこの世に復活した。もはや何も抱いていない腕がふわっと軽くなる。

あなたもブラームスが好きなの?悪あがき程度に質問を横の男にぶつけた。「え?何のことだい?」この男は…白々しい。あなたが言ったのよ。この店と小径の由来。そうだったでしょ?
「そうだっけ…?」

…おかしい。この棒のように立っている男は最低だが仮にも医者の卵。記憶力はいい…忘れるはずが。ヨーロピアンな小径を彩る木々のざわめきが焦燥感を煽る。
あと1年…お互いに自立できるようになればあの子を迎えに行くのよね?

「ああ、もちろん。天に誓うよ」一瞬で目の前にいる男の色が失われて足が震えた。ハッと我に帰ると、ブラームスの目が確かに訴えかけた。川の支流を埋めたてて造った道を駆け抜ける。

フォンティーヌ通りにある噴水。辺りは暗く照明が焚かれて異国情緒を醸し出していた。それ以外は何も変わらない。ただ、ぬいぐるみだけが落とし物のように転がっている。我が子はいない。誰もいない。天を仰ぐも暗闇しかなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?