その蓋の(二度と)開かない箱には、ヴァニラの匂いのポートレイトがたくさん詰まっていた。
満月の夜には。私は街に出かける、夜の街、ぴかぴかにひかる。長い髪をさらさらと梳いて、ホルターネックの小さいキャミソール、ピンクのチュールスカート、編上げのブーツ(夏だけど)。それにぽってりと紅いいろで唇を描く。それに愛機ニコンの銀塩、ポートレイト用の単焦点を装けて。香水はシャリマー、甘い、甘いヴァニラ。
「お姉さん、ほんとはなにしてるひと?」女の子は、薄く笑って言う。「実は取材とかってやめてよね。」「普通に昼職。」「何だ、つまんない。」ガードレールにお尻を引っ掛けて、ふたりで並んでアイスを齧りながら、どうでもいい話の合間に、ふと彼女が訊いた。二人で交代に齧っているのは、ハーゲンダッツの、あのさくさくしたウエイファーで、ごくごく甘くつめたいクリームを挟んだの。むしろ喉乾くよね、むしろ暑苦しい、私たちはおでこをくっつけてくすくす笑う。
男が通る。スーツ姿のサラリーマン風情、私はちょっと顔を伏せて、目を合わせないように。女の子は呪文みたいに何かを唱えた。
折り合いがつかなかったのか、男が「こっちは?」て私に聞くから、私は女の子の手を手繰り寄せた。甘くて熱く柔らかな塊が私の腕の中に滑り込んで、むせ返るような甘い匂いがする。私たちはぴちゃぴちゃと音を立てて(わざとに)キスをした。男はなにか言っていたけれど、私には聞こえない。ん、と女の子が身体を離すと、今度は男が彼女の腕を引いた。「キキちゃん、じゃあ行く、私。」男と女の子が早足で行き去るのに、私は背中を向ける。
女の子たちと私は、名前も知らない(その時の適当な名前で呼び合う)、素性も知らない(別に打ち明け話の類はしない)、本当の年齢も住所もなんにも知らない、夜の路上の友だち。月が明るく大きな数日間の、その夜のうちの数時間を一緒に過ごして、私は時々彼女たちのポートレイトを撮る、何のためでもなく。
それでも、女の子たちの多くは、10代だったと思う。夜、もう少し時間が遅くなると、伝説のお姉さん(「あの人70歳過ぎてるってみんな言ってる」)や、東南アジアの女の子たちも来る。「あっちの駐車場の方に行けば、金髪の子もいるしさ」女の子が教えてくれる。
お酒をねだられることが多いけれど、私は代わりに、ハーゲンダッツの箱を手渡す。「これ、おいしいんだよね。」小さい声が、幼く聞こえた。特に話すこともなく、一緒に並んで煙草を吸ったり、携帯を眺めたりしている。夜が更けるのを、手持ち無沙汰に私たちは待っている。
気まぐれに、「今日は撮っていいよ」女の子が言う。夜明け前、客の男とご飯を食べてきて、(いつものところに戻り)私の姿を見とめて。「なんだかごきげんじゃん。」私は微笑む。「その前に、ちょっと抱かせてよ。」私はさっきの蠱惑的な私たちの姿を思い浮かべながら、今度は、お母さんみたいにぎゅっと抱きしめる。少し湿った髪を撫で、掌でその華奢な背中を温める、ちょうど心臓の裏のあたり、ハートチャクラのあるところ。しばらく私たちはそのままでいた。すっと彼女が身体を退いたとき、ちょっと目を伏せて、それからもう一度私の顔を見て、優しい感じに微笑んだの、私は切り取るみたいに、シャッターを押した。
それからまた彼女の身体を引き寄せて、今度はキスをする。ゆっくり、やわらかく。彼女がそうっと唇をひらくから、私はそうっとその内側を舐める。そして私たちは、甘くとろりとした液を交換する。唇を離して、まだ濡れたままのを、ぼうっとした瞳を、姿がわからないくらいの接写で。そうして私は彼女の首筋に鼻をつける。ヴァニラの香りが移っていた。
写真、くれる?て女の子たちはみんな言う。「いいけど、これフィルムだから、家で現像してこないと。」「なにそれ」て女の子たちはくすくす笑い、それから二度と会えないこともある。
膨大な女の子たちのポートレイトは、丁寧に現像して小さく紙焼きにして、お菓子の箱にしまった。フランスの、甘くかわいいマカロンがたくさん入っていたの。ヴァニラの香りを湿らせた紙片を紛れ込ませて。
あなたがもし、この創作物に対して「なにか対価を支払うべき」価値を見つけてくださるなら、こんなにうれしいことはありません。