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バクーにおける夜明けの儀式と、夏休み(勝手に決めた)のはじまり

夜明け前が一番暗いという通説は、どうやら虚偽のようだ。日の出の時刻に、空をずっと眺めているから知った。空は、徐々に徐々に明るくなってゆく。群青色の薄闇に、ひかりのミルクを少しずつ溶かし込んでゆくように。夜明けは、ファジュルの礼拝の時間。少し遠くのミナレットから微かにアザーンが聴こえる。そうしているうちに、朝の最初の光が射すと、鳥たちが啼き始める。この季節は、クロウタドリ。そして近所の庭先で、鶏たちががやがやと声高にお喋りするかのように。

私はおかしな時間に短く、寝たり起きたりするのが常なのだけれど、たいていこの時間はぱっちりと覚醒している。私の、この朝の見届けには、ねこが付き合ってくれる。彼女は、窓枠のところに座り何も言わず窓の外をじっと見つめている。この時期、夏のアゼルバイジャンでは、ほとんど降雨がない。たいていはぴかぴかの晴天で、日によってちょっと雲が掛かる程度。そしておおよその日には、乾いた風がびゅうびゅうと吹いている。なので気温が高くても、さほど暑さを感じない。

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夫も私も、朝食をとらないので、その代わりに私は、コーヒーを作る。7時になったら、ふたりで録画の『おはよう日本』を観ながらそのコーヒーを飲む。我々の眠っている間にも、世界では実に様々な事が起こっていて、その報道の一つ一つに私達はコメントをし合う。そこは家族だから、多少ラディカルな(よそでは)腹の底にしまってある自説を、忌憚なく披露し合えるので、この朝の会話はなかなかに痛快だ。今朝までに、日本では未曾有の大雨が降り、ハイチでは大統領が暗殺され、インドネシアではコロナウィルスの感染者が急増し、アメリカでは大谷翔平がホームランを打っていた。色とりどりで混沌とした現実世界。合い間に、いかにも日本女性らしい華奢で清楚な服装のお天気キャスターが「今日は傘をお持ち下さい」と呼びかける。雨傘をさすかささないかぐらい自分で決めるさと、私は心のなかで毒づく。夫のズボンにアイロンをかけてあげて(いつも慌てて朝にやる)、行ってきますと出掛けるのをねこと一緒に見送って、私の朝のリチュアルは終わり。

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でも今は、夏休みのさなかである。

主婦なので、自分で勝手に宣言した。明日から、8月いっぱいまでを、私の夏休みとします、といった感じで。とはいえ毎日の家事とか、食事の支度等はこれまで通りだし、旅行に出掛けられるわけでもないし、日常の連続性という観点から見れば、何ら変化のない生活なのだけど、強いて言えば、「心もち」が違う。朝、少しだけ早く起きて、その分、長らく積んだまま放置してきた哲学書を読む時間に充てるとか、家事の間に間に、短時間でも捻出してつとめて書きものをするとか、刺繍や編み物とか創造的な作業を、もっと生活に取り入れるとか、そういう「夏休みらしい」活動を増やすという意味において特別だ。

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そしてもちろん、たくさん泳ぐ、せっかくの夏休みだから。平日は、コンパウンドの中庭に据えてあるプールで、同じくバクー残留組の友人たちと挨拶を交わしつつ、寝椅子に寝そべって読書をしたり、浮き輪でプールに浮かんで読書をしたり、それに飽きたら(やっと)つめたい水の中で泳いだりする。その繰り返し、永遠に続けていられる。週末は、海だ。カスピ海の沿岸には、素敵な海水浴場がいくつもあって、ビーチクラブと呼ぶ日帰りのリゾートホテルみたいな瀟洒な設備が点在している。バクーから小一時間も走れば、カスピ海の水もきれいだ。ビーチで(また)寝そべっておひさまを浴びながら(また)読書をして、西瓜(アゼルバイジャンでは、フェタチーズのような塩分の強い白チーズを添えて食べる)で水分を補給して、虹みたいな色のカクテルを飲みながら、瑪瑙を溶かしたみたいな色の水の中で泳ぐ。どこまでも遠浅の、波の少ない水面を。のっそりとした古代生物の骨格見本のような原油掘削のリグが、いつも背景に見えている。

夏休みがはじまった。

あなたがもし、この創作物に対して「なにか対価を支払うべき」価値を見つけてくださるなら、こんなにうれしいことはありません。