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現実とフィクションのあいだを甘い酒に繋いでもらうよるに。

きみが泣いているのを初めて見た。

正確には、音声通話なので「聞いた」なのだけれども。その光景は私の眼前にあり、それでいて触れることが叶わないくらい遠くだった。耳に押し込めたイヤフォンを、更にぎゅっと押し当てて、私は彼の小さな息遣いが、どうか聞こえるようにと願った。

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頭の中で素早く計算する。日本の時間では、3時23分。彼は未だ眠っていなかった。最初に、短いけれど乱暴なほどに自棄な言葉の並んだテキストと、追いかけるように今度はやけに弱々しい言葉が並ぶ。こんなにへなへななきみは、一体どうしちゃったのよ?と(このテキストの送信相手に選ばれたことに満足して)少し浮かれてすらいた私は。見慣れた名前の下に並ぶ番号の、緑の受話器のサイン(ところで受話器というのはなんと象徴的な記号なのだろう)を撫でた。

刹那。彼が私の名前を呼んだ。今まで一度も、そんなふうには言わないのに。それで、私は息が止まる。

彼は、饒舌に話した。でも、とても小さな声で。時々、日本語と、彼の母語がぐちゃぐちゃに交錯する。彼の、極稀に昂ったときのそのしぐさに、私はその傷の深さを思う。なんの解決にもならないけれど、彼に今少しのあいだ必要なのは、ただの寄り添いだと思った。同じことを、波のように繰り返して、大丈夫、あなたは大丈夫、ただその思いが伝わればいいと、私は願った。その先は、私が立ち入ることを許されていない領域だから。

彼もそれを(もちろん)知っていて、ふうと呼吸を一つ整えて、その次の瞬間にさっとかわすみたいに心を翻して、扉を閉めた。私には、それがありありと見えた。聞いてくれてありがとう、といつもの落ち着いた静かな声で言う。ふと、いつもの彼のきっちりと整えたスーツ姿を思い出した。

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ねえ、と最後に彼が、もう一度私の名前を呼ぶ。いや、なんでもないんだ。そう言ってぷつりと切れた。

でもさ。いま私が差し出したら、躊躇なくきみはこの手をとれる?


#呑みながら書きました

あきらとさん、マリナさん、楽しい機会をありがと!

あなたがもし、この創作物に対して「なにか対価を支払うべき」価値を見つけてくださるなら、こんなにうれしいことはありません。