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【絵とSS】絵は動いている  ― ヒゲ一本の拘束 ―


ヒゲ一本の拘束
作者 YOKOZCO

*YOKOZCOさんの許可を得て画像を載せています。

ヒゲ一本の拘束


 出張先でひと仕事を終えたひいらぎは、シャッター通りと化したアーケードを歩いていた。駅の反対側は開発が進み賑わっていたが、柊はひなびた通りで出会う店を好んでいた。

 アーケードの中ほどまで来ると、チカチカと電球が切れかかった珈琲店の置き看板が目に入った。まさに柊好みのシチュエーションだ。重みのある木のドアを開けると、珈琲の香りが漂ってくる。と言うより、珈琲の香りが薄暗くこぢんまりとした店内にしみ込んでいるようだった。

「いらっしゃい、どうぞ」

 カウンター越しに、ヒゲを蓄えたマスターが穏やかな笑顔を見せる。他に客はいなかったが、柊はカウンターの席に座りネクタイを緩めると、深煎りの珈琲を注文した。

 柊は、マスターの品のある物腰と無駄のない動きに惚れ惚れした。いったいどれくらい珈琲を入れ続けているのだろう?

「ここはもう長いんですか?」

「ええ、三十年近くになりますかねえ」

「そりゃすごい。私は、訪れた町でこういったひなびたお店を探すのが好きでして…」

 マスターの手が一瞬止まり、柊は焦った。

「いや失礼」

「いえいえ、そう言って来て頂けて嬉しいです」

「お店ができたころは、ここの商店街も賑わっていたんでしょうね」

「そうですね。今はもう、皆さん駅の向こうのビルに移転したり、お店を畳んでしまったりと……どうぞ」

 白磁のカップに、珈琲の深い琥珀色が輝いている。身体中に染み渡る液体が、仕事の疲れを忘れさせてくれた。

「ふう、生き返った。こんなに優しく包まれる珈琲は初めてですよ」

「それはよかった。そう言って頂けて、私も思い残すことはありません」

「いやいや、思い残すことはないなんて大袈裟ですよ」

 柊は照れ笑いをしながら、カップをお皿に置いた。

「ところでマスターは、駅の向こうに行こうと思わなかったんですか?」

「一度は移転も考えました。けど、やはりここを離れることができなくてね」

「しかし、ここでやっていくのは大変ではないですか? いや、私はこういうお店が残っているのはとても嬉しいですが」

 マスターは一瞬何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。

「私は一人ですし、時々貴方のような方がいらっしゃるのでね。それに……」

 マスターは、カウンターの端に置いてあった小さな絵を柊に見せた。その絵は、粗い麻布のキャンバスに黒ペンで男の顔が描かれていた。絵の男は、一本の線で描かれたテーブルから顔を半分出し、長くボリュームのあるヒゲをテーブルの上に乗せている。妙なポーズだが、どこかマスターに似ていた。

「それはね、以前不思議な老人が珈琲代代わりに置いていった絵なんですよ。男の視線の先をよく見てごらんなさい」

柊は絵に顔を近づけ目を凝らした。男が見つめる斜め下には、テーブルの上に一本の細長いヒゲがテープで張り付けてあった。なるほど、妙なポーズはこのせいだったのか。

マスターは、柊が確認するのを見計らって話を続けた。

「その老人がこう言うのです。『あなたはここに居るべきではない。けれど、この場所に未練があるのでしょう? では、珈琲とこの絵を交換しましょう。絵の中のテープが剝がれない限り、あなたはここに居られるでしょう。あなたの煎れる珈琲はとても優しい。ヒゲ一本のチャンスを差し上げましょう』と」

 マスターはそんな話を信じているのだろうか?

「それは眉唾物ではないですか? 珈琲代を持っていなかっただけなんじゃ」

「そうかも知れませんね。私は移転することもできず、かと言ってやめる気にもなれず、何かにすがりたかったのかも知れません。絵を見ているとね、老人の言葉を思い出してここに居ていいんだって思えるんですよ。人生なんてちょっとした事で変わるものかも知れないってね」

 柊に向けられたマスターの微笑みが寂しそうに見えた。本当はみんなと一緒に駅の向こうに行きたかったのではないか? どうして諦めたのかわからないが、それ以上聞いてはいけない気がした。

「大体、絵に描いたテープですから剝がしようがないでしょ」

重くなった空気を払拭するように、マスターが吹っ切れた笑顔を見せた。

「そりゃそうだ」

 柊はホッとして、うっかりカップに手が当たった。

「うわあ、ごめんなさい」

 珈琲がカウンターの上にこぼれ、あちこちに飛び散っている。マスターが差し出したおしぼりで拭いていると、柊のスマホのアラームが鳴った。

「しまった、いつの間にかこんな時間に。マスターすみません、行かなくちゃ」

「いえいえ、お気になさらず」

「また、必ず来ますから」

 マスターは、柊が入ってきた時と同じ穏やかな笑顔を見せた。今度はゆっくり時間のある時に来よう。柊は入口のドアに手を掛けマスターの方を振り返って軽く会釈をした。

「んっ?」

マスターの姿がぼんやり薄くなっているような気がした。疲れているのか? 柊は目を擦ってもう一度マスターを見た。しかし、気のせいではなかった。輪郭がぼやけ、少しずつマスターの体が消えている。柊は言葉を失った。呆然と見ている柊の目の前で、微笑んだままマスターはいなくなった。

「どういうことだ?」

柊は、マスターの言葉を思い返した。

「……まさか」

マスターが居るべき場所はここではなく、あの世。柊の手は冷え切り、汗がじわりと滲んでいた。

「!」

さっきまで座っていた椅子は傷み、カウンターには埃が積もっている。柊は、慌てて男の絵を掴んだ。ヒゲを張り付けたテープが、真新しい珈琲のシミで消えていた。



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