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このノートにはこの万年筆を使おうと決めたのに、何を書くかが決まらない

目の前に、MDノートの新書版・方眼罫がある。

カスタードクリームみたいな色をした表紙はうっすらとした型押しがしてあるだけで、シンプルで瀟洒で、ひっそりと息づくようなたたずまい。開くと、クリーム色の紙に薄い青のような緑のような方眼が並んでいる。

隣に転がしてあるのはジンハオの万年筆だ。モザイクのようにほんのり透けるピンクの樹脂製で、ゴールドの金具がつややかに光っている。インクはフォンテの赤茶<あかるいほうへ>が入っている。

このノートにはこの万年筆を使おう。

そこまでは決まっているのに、何を書くかが決まらないまま、二週間が過ぎた。



何を書いたっていいんだよ!

と自分を叱咤して、いざページを開く。まっさらな紙、整然とした方眼。万年筆のキャップを外す手が止まる。

こんな素敵なノートなんだから、何か素敵なことが書きたい。せっかく素敵な万年筆を使うんだから、何か素敵な言葉を使いたい。

そんな欲がためらいになり、ただただ紙面を見下ろすことになる。

この状況には身に覚えがある。

一目ぼれして購入したシルクのガウン。羽衣のように軽くてやわらかで、あまりにも気に入りすぎて、汚したくなくて、5年で数回しか羽織っていない。

大好きなのに、大好きだから、安易に消費したくない。大切にしたい。とっておきたい。近づきすぎないようにしたい。

そういえば、人間関係もそんなことが多い。滅多に会えないような遠くにいる人とばかり仲良くなる。


そんなことを考えながら呆然とお菓子を食べていたら、ぽろりとクッキーのかけらがこぼれた。

案の定、開きっぱなしのノートの上に着地する。あわててかけらを払ったけれど、紙面にうっすらと油のしみが残ってしまった。

もーー!!

怒ったってしょうがない。自分の不注意が悪いのだ。六花亭のバターサンドに罪はない。

この状況にも覚えがある。

おっちょこちょいな上に思いつきで動くので、気づくとどこかにほころびが出来ていることが多い。脚にはいつぶつけたか分からないアザがよく出来ているし、衝動買いしてそのまま忘れていたコスメが、後日バッグの隅からポロリと出てくることもある。

そんな性質だから、考え過ぎたりためらったり、慎重にならざるを得ないのだ。自分を緊縛している自覚はあるけれど。

残りのバターサンドをもぐもぐ咀嚼しながら、怒り悲しみというより諦念に近い気持ちで、しみの上を指でなぞる。

そうだ。

やっぱり、この状況にも覚えがある。

大切にしていて、ほとんどおそるおそる使っていた革のバッグに、いつの間にか傷がついていた。その傷を見た瞬間、バッグに対する畏れが消えた。傷がついてはじめて、自分のものになったような親しみを覚えた。そこからガンガン使い込み、そこらへんに放り出し、くたくたになった革は、すっかり私の肌になじんでいる。

そういえば、仲良くなりつつある人の「なんでそうなの?」という面をみつけた時も、「そういう人だから仕方ないよね」と前向きに諦めた瞬間に、心と身体が安心してもっともっと好きになる。

たぶん、汚点も傷もないようなものに、私は心をゆるせないのだ。どんなに好きでも、心をゆるせないものに触れることはできない。

たくさんたくさん使い込んで傷ついて汚れて、くったりやわらかくなめらかになったものに、そっと身をゆだねたくなる。その傷や汚れが、私によってついたものなら尚更だ。それは私専用に仕上がったという証拠だから。


万年筆のキャップを外し、

「いいじゃんべつに何書いても」

と、しみの上に書いた。


いいじゃんべつに。

自分を緊縛していたものをするする解いて、またひとつ好きなノートが増えた。

ついでにシルクのガウンを引っ張り出して、羽のようにやわらかな感触に包まれながら、もうひとつバターサンドを食べることにした。

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