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世界が終わらないという事実への降伏

さいきんたまに、ぼんやり、うっすら

あ、そろそろ諦めなきゃ、飲み込まなきゃ

受け入れなきゃ、腹を括らなきゃいけないのかもしれない。

と思っていること。

世界が終わらないことへの降伏

年貢の納め時かもしれない。

わたしの人生は、例えば病気になったり

この先も心臓をもぎとられるような

悲しくて辛いお別れを経験しながら

それでも結局

世界は終わりなんてせず

ボロボロになりながら続いて行くのかもしれない。

どんなに気をつけても

悲しいことは起こるかもしれない。

どんな頑張っても

病気にはなるかもしれない。

どんなに真っ当に生きても

理不尽は降りかかってくるかもしれない。

そして、

そんなことが起こっても、

おそらくたぶんきっと

世界は終わってはくれない。

辛いとか、苦しいとか、悲しいとか、寂しいとか

そういう一生味わいたくもない感情や気持ちを

抱えながら生きていくしかないのかもしれない。

その可能性をゼロにすることは

生まれてしまった瞬間から

もう無理な願いなのかもしれない。


先の予定を立てることが苦手だった。

世界はたった一瞬で

脆く崩れ去ることを知ってしまっていたから。

未来の約束をする人の気が知れなかった。

気持ちが変わらない人なんていない。そんな

知りたくもなかった事実を知ってしまっているから。


だからいつも少しずつ、

少しずつ少しずつ

小さな目標を立てて、

自分が苦しくならない範囲の

今よりよりよくなるための目標だけ立てて

そうやって生きてきた。

2年後なんて予測するだけ無駄だ。

どうせわたし以外の誰かや何かが

勝手に降りかかってきて

どうにかするために

わたしの描いた眩しい未来は

儚く砕け散っていくのだ。

わたしより、

わたしの周りの世界を優先したがる

自らの手によって。

未来に対して意志を持たないことは

生き続けるための防御だった。

わたしの世界が終わったも同然だった

17歳の1月。

それでも世界は終わってくれなかった。

あの日から、わたしはなんだかんだ

10年以上もこの世界を生きている。

何もなくなったはずの世界で

かろうじて輝いて見える宝石に似た

まやかしのなにかを

自分を騙すためにかき集めて

この世界も悪くない。と

いつか、この世界が終わることが

名残惜しいとさえ思えるくらいに。


ただ、わたしもうあれから10年も生きた。

だんだんと生きることにも慣れてきた気がする。

そして、だんだんと観念してきた。

この世界とこの世界で生き続けていくことに。


さいきんたまに、ぼんやり、うっすら

思うことがある。

あ、わたしの人生って

きっとこの先も続いていく。

いくら嘆いていても

今までの10年の何倍か

続く可能性が高い。

そして、その間に起こるさまざまな

無条理や理不尽は

ある意味、どうしようもない。

この世界のオリジナルパッケージが

わたしの思い描いていたものと

ほど遠かったことに対して

そろそろ観念した方が良さそうだ。

いっそ楽になった方がいい。

この世界が、宝箱ではなく

ゴミ溜めだったことに

素直になって

そんな世界で

キラキラ輝く本物の宝石たちや

いい匂いのする清潔な世界、

オリジナルパッケージに含まれていた

感謝すべき初期装備をたくさん愛でて

この先残された時間を

どうやって満喫し切るか。

たのしい・気持ちいい・しあわせ・すき

そういう気持ちでいっぱいに

いっぱいいっぱいにしていくことに

専念した方が良さそうだ。

この世界と仲良くなろうとしてみるのも

そろそろ悪くないかもしれない。

さいきんたまに、ぼんやり、うっすらと

そんなことを考えている。


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