意味について

 本来的に世界は没価値であって、そこになぜか人は意味を見出し、そのおかげで人はニヒリズムに陥ることなく意味に満ちた生を生きることができていたのに、現代の合理化、効率化、自動化はそれらの意味解釈を取り除いた、数値的事実のみを重視し、それ以外の意味に関することを軽視するようになってきた。

 現代社会の構造は、意味抜きの見せかけの数値を最大化することを基本原理として発展してきたが、その数値の最大化は人間の幸福の増大とは必ずしも一致せず、それどころか相反するものとさえなりうるのであり、この構造は致命的な欠点を孕んでいる。システムは自己発展を続け、本来人間の生を豊かにすることを目的にしていたはずのそれは、今や逆に人間たちがシステムに飼い慣らされている状況だ。この問題は、現代の人々の幸福度の低さ、自殺率の高さなどからも見て取れる。

 完全に無駄が排除された合理的な世界を率先して肯定する人々はそのような問題にも科学技術によって対処可能としている。すなはち、人間の幸福も苦しみも脳内の物理科学的現象であるのだから、それを人為的に操作してしまえば、誰もが幸福で満ち足りた生を謳歌することができるというのだ。しかしこの意見には重要ない視点が抜け落ちている。人間は時間的広がりを持つ構造体であり、現在における自己ぞうは絶えず過去からの影響を受けており、自己に意味を与えるのもまた、過去における記憶だ。その記憶なしに幸福の幻想を見せられても、それこそ意味抜きの幸福、空虚な空っぽな感覚しか生じないだろう。幸福の定義はそう単純ではないのだ。

 では、この状況をどうすればいいのか。いっそこの世は無意味だということを受け入れニヒリズムに浸ろうか。しかし人間の精神は無意味な世界に絶えられるほど頑丈にはできていない。いずれ崩壊するだろう。私には、人々が一見平然とこの世界を生きていることが不思議でならない。こんな世界で発狂しないでいられる人間の精神の単純さは褒められたものだ。彼らを見習うべきだろうか。いや、知は不可逆的なものであり、一度理解してしまえば知っていない状態に戻ることはできない。この世界では無知は強みだ。知性なんてものが生存に有利に働くのは、合理的な神の治める宇宙でだけだ。この世界の神は長らくお留守のようですし、私は知り過ぎてしまった。私は死ぬだろう。

 

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