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Santa Davis インタビュー(2019) 2/4

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イ: ラスタファリがあなたの人生に入り込んだ頃っていつごろ?
ラスタファリがあなたの音楽や精神性の一部になったのはいつ?それについてあなたとあなたのお母さんの間で問題は無かったの?
S: ええと、おれのスピリチュアルジャーニーは教会に通ってた頃から始まってたんだ。だってそういう風に育ってきたんだぜ?教会に行って、聖書を読むママの姿を見てたんだ。
子供のころにラスタカルチャーの話は聞いてたんだけど、よく理解してなかった。ジャマイカで育った人々は子供のころからラスタはweedを吸ってるだけという話を聞かされていた。
イ: ラスタファリアンは "Blackheart men" と呼ばれて、子供を攫うって.......
S: おれはblackheart manの周りにいたんだ。彼は決して大人が言うような酷いことをおれにしなかった。
イ: 近所にラスタが住んでたってこと?
S: おれは "Constant Spring" と呼ばれるエリアに住んでいたんだ。それがネイバーフッド。
おれんちは中流家庭だったからConstaant Spring Roadの家に住んでいた。おれのステップファザーのおかげさ。
イ: どんどん厳しい状況になっていったの?
S: Yeah, だからおれらはダウンタウンに引っ越したんだ。それ自体はなんでもないことなんだけどね。わかるかい?
おれが子供の頃、いいとこのいい家に住んでいたんだ。でもじきに道を挟んだゲットーみたいな場所に住むようになったんだ。そのときはゲットーとは何かってことがわからなかったからさ。ドラミングやそんな類の大きなノイズがあちこちから聞こえてくるんだ。いつも騒ぎが起こってる感じだったね。そしてそこにはあちこちに小峡谷のような森があったんだ。子供だったおれはそこへ遊びに行ってた。そこにはラスタマンがいたんだ。なぜなら当時、ラスタは隠れなければいけなかった。彼らは警察から追われていたから居住区の外に住まなきゃいけなかった。そもそも彼らに家を貸す人なんていなかったからな。茂みの中に住むしかなかったんだよ。
イ: 嫌われてたの?
S: その通り。だって彼らはラスタマンだ。森の中に住んでるんだぜ。そこに遊びに行ったおれは料理をしている男を見つけた。おれはその料理を食べなかったのを覚えてる。weedが何かわかってなかったから、彼がweedを吸っていたかは覚えてないけどね。彼はおれに話してくれたんだ。彼のドレッドはとても太かったよ。大きいマットみたいだったよ。当時、ラスタは "mop heads" と呼ばれていた。
イ: あなたが初めて会ったたとき、ラスタマンはblackheart menと呼ばれていたわけだけど、彼に恐怖は感じなかったの?
S: 覚えてない。おれが彼について一番思い出せることは、彼は親切だった。決して大人が言うような怖い人間じゃなかった。人々はblackheart menと言うけど、おれはそんなこと言うやつがblackheart manだということに気づいたんだ。
そうこうしてる内にママがそこにいるおれを見つけた。ママは怯えていたっけ。そして言うんだ "もう二度とあんな場所に行くんじゃないよ" ってね。でもそのラスタマンはおれにラスタのことを穏やかに語ってくれた。彼はとても親切だった。それがおれの考え方を変えたのかはわからないけど、確かにそれは衝撃だったんだよ。
イ: あなたはそこから成長して、どれくらいラスタカルチャーについて学んだの?ラスタカルチャーやラスタファリに関係があるレゲエやドラミングを通して学んだの?
あなたにHaile SelassieやMarcus Garveyのことを教えたり、本を貸したりしてくれた人がいたとか?
S: おれがドラム隊にいた期間、当時のジャマイカで子供だったおれはMarcus Garveyにまつわることなんて耳にしなかった。何も知らなかったんだよ。いつしか周りにGarveyを知ってる人が多くなって、Marcus Garveyについてのストーリーをたくさん聞いたね。そうやってMarcus Garveyについて学んでいってさ。そのうちラスタドラミングを聴くようになったんだ。
ちょっと時間がたってラスタは少しだけ自由になって表に出るようになったんだ。でもそれでラスタと警察間のバトルみたいな感じになっていった。ラスタは本当に差別されていたからね。ラスタがあの髪型で道を歩くだけで彼らは拘束されて髪を刈り取られて、身ぐるみ剥がれるんだ。でもおれは本当のラスタについて学び始めた。あるときラスタが聖書について話してるのを聞いたんだ。聖書や神について話してるラスタの話を聞いて、なぜ人々はこの人たちと闘ってるのか疑問に思った。
イ: 正しくあろうとしたわけだ。
S: Right! その理由だけさ。何が問題なのか、なぜ人々はラスタに対して懐疑的なのか。それはラスタがナチュラルライフを送ると決断したからさ。彼らは決まったものしか食べかったからね。
イ: ラスタはItalのライフスタイルなの?
S: Yeah, それとおれは床屋に行って髪を切るのをやめた。伸ばしぱなしにしたんだ。バビロンの風呂に浸かる代わりに川に行って身を清めた。そんなことをやり始めたんだ。でもみんなはweedを吸ったり、そんな行動が狂ってると思ってた。
おれは少しずつラスタの生活に慣れていったがラスタでいることに熱心になってる訳では無かった。だっておれはカトリックとして育ってきたからいろんな問題が生じるんだ。カトリックのvibesと教会で何が起こってるのかを知ったときやカトリックの人たちの話が耳に入るようになり始めたとき(笑)おれはちょっと待てよと思った。
ラスタのvibesは拍車をかけておれに訴求してきた。もっと学ぼうって気になったね。おれがRas Michael周辺で活動し始めたころ、それがラスタファリについて学びだした時期なんだ。おれはRasと音楽をプレイし始めたからな。
イ: あなたがRad Michaelと音楽をやるとき、自分のアティチュードのことを話したの?だってRasは先輩の一人.....
S: Yes!
イ: 彼はあなたに知識を授けたんだね。
S: Right. 後に多くの人がCount OssieとMystic Revelation of Rastafariのことを耳にするんだ。おれはRastaの教えに耳を傾け始めて、ブラザーやスピリチュアルな人たちのことを知ることになるんだよ。ラスタは生き方だからね。ドレッドの多さや長さじゃないんだよ。ラスタの道は人生であり、自分自身を保つ方法だとと気づくのさ。考え方であり、行動であり、人生すべてさ。
イ: あなたがJake Feinberg showでインタビューを受けたとき、あなたのドラミングスタイルにおけるアフリカンミュージックとアフリカンドラムパターンからの影響について話していたよね。
S: Yes.
イ: あなた独特なサウンドを形成するためにアフリカの要素をドラムのrollsとfillsに加えることを話していたよ。あなたのアフリカンドラムパターンやアフリカ全般への興味、ラスタファリの全貌を明らかにするモチベーションやナイヤビンギドラミングへの興味、これらは関連するの?
S: おれは2人の素晴らしい人たちに救われたんだ。わかるかい?アメリカに住んでいた一人の友達がいたんだ。でも彼はジャマイカに帰っちゃった。Teddy Powellという名前だったと思う。彼は今ジャマイカに帰ってレコード屋を開いてるよ。彼はあちこちで商売してたな。アメリカの商品をたくさん持ち帰っていた彼の店でおれはアメリカの服を買うようになった。その店ってのはジャマイカにあった店だよ。彼はおれの目をジャズとアフリカンミュージックに向けさせたのさ。
イ: Teddy Powell?
S: Yeah, 彼のラストネームが「Powell」だったはず。ギターも演奏するんだよね。彼はバンドを持っていたからさ。おれは彼とも演奏していたよ。Teddyはおれのアフリカンミュージックへの興味を開かせたんだ。彼は言った "Babatunde Olatunjiを聞いてみな" ってね。あとジャズミュージシャンでいったらCharlie MingusやColtraneそしてArt Blakeyらを勧めてくれた。おれは音楽学校に通ったことは無いけど、あれこそがおれにとっての音楽学校だったな。彼はおれにポリリズムへの興味を持たせてくれた。そしておれはおれはここにいたんじゃないかという深いコネクションを感じるようになったんだ。そうやって好きになったね。
おれはリズムが交差してる音楽が好きなんだ。だってそれまでおれらは "One, two, three, four," って感じだったんだぜ。アフリカのポリリズムドラムはおれをアフリカまで連れてった。時空をさかのぼるのさ。だっておれらはすべてにおいて繋がってるんだぜ?
イ: Yeah.
S: おれらはアフリカと繋がってるんだ。
イ: みんなそうだよね。
S: Teddy Powellがこれらの音楽とおれを繋いでくれたとき、彼はアフリカとおれを再接続させたのさ。そこにはおれが感じたナチュラルフィーリングがあったし、誰もがドラムをプレイしていた。おれはアフリカのリズムのすべてを聴いていたからな。おれが企てたものじゃないんだ。
イ: そのフィーリングを感じる瞬間ってあなたがステージ上で演奏してるとき?それともjamしてるとき?
S: Yeah, おれがやってることに対して影響を与え続けるのがどんだけベストなのか?ってこと。
イ: あなたはよく音楽と料理を比較するよね。
S: (笑)Yes! Yes! レシピを使うところとかね。
イ: 主張してることはわかるよ。あなたがアフリカンリズムを用いた実験を始めたとき、あなたと一緒に音楽をやっていた人たちから反応はあったの?
Tony ChinやFully Fullwoodといった人たちからの反応。"クールだね!" とか、"おまえは何をやってるんだ?" とかさ。
S: Okay, 今の人たちの多くがわからないだろうな。多くの人にとっては変なものだったんだ。おれがあるfillsをやったとき、みんなを混乱させたんだ。なぜならそのfillsは一般的なものじゃなかったからね。だってポリリズムからかなり影響を受けたからね。
おれがその実験を一緒にできた人を知ってくれ。何人かのミュージシャンはわかっただろうし、理解できなかったミュージシャンもいただろうな。おれのfillsやおれがやってることは複雑だったんだよ。ずっと不完全だったから学び続けていたんだ。でも実行しようともしていた。
イ: あなたは実験的なミュージシャンだったの?
S: その通り。人々はそれに対して "Hmm, これは海外のものだ。ブラザー、普通にプレイしてくれ。"って感じだった。(笑)そしておれはどうやってシンプルに演奏するか、ということを認識した。ちょっとやり過ぎな部分もあったかもしれないからね。
おれは彼らが言うことに反論しなかったよ。すぐに計画に立ち返らなきゃいけなかったね。なぜならやりすぎな部分があったから。
イ: あなたは前にドラミングについてこう言ってた。"演奏時のことを知ることはかなり重要だ。でも演奏しないときも同様に重要なんだ。"
S: 間違いない。すべての小節を演奏で埋め尽くしてほしいやつなんていないだろ?fillsにしてもrollにしてもそうさ。だれも4小説や8小説丸々演奏してほしくないんだよ。
イ: 音楽には無音があるべきだってことだよね。
S: リズムさ。これから言うことはおれがずっと思っていること且つ初めて話すことだ。おれはドラムソロをやるのは好きじゃない。ほんとに好きじゃないんだ。おれはその場の一部になるのが好き。個人プレーじゃなくて、ムーブメントの一部でありたいんだ。wickedなことをやりたいんだよ。わかるかい?(笑)
その場を読み込むことができるミュージシャンと一緒にプレイすると、インスパイアされるんだ。まー、音楽を作るためにはドラムソロなんかも普通にやるんだけどさ。ドラムソロをやる他のミュージシャンを揶揄してるわけじゃないよ。おれは味付けの一部になりたいだけ。これが料理だとしたら、ブラックペッパーが多すぎたり、塩が多すぎたりすることってあるだろ?自分のドラムでそういう風にしたくないんだよ。
イ: あなたはPeter Tosh、U-Royとアフリカツアーを敢行したよね。Tony Chinがアフリカでのあなたの写真を見せてくれたんだ。蛇を手づかみしてるあなたはどこか不満げだったよ。
S: (笑)おれらはツアーでSwazilandを訪れていたんだ。もっとやりたかったなぁ。

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イ: それはPeter Toshと?
S: Yeah, 彼は南アフリカに行かなきゃいけなかったけど、アパルトヘイト政策が行われていたからね。Toshはアパルトヘイトのような人種差別に立ち向かっていた。Peter TOshは立派だったよ。人種差別について話す人は他にはいなかった。おれはアパルトヘイトが何かってことすら知らなかった。
Peter Toshはおれにアパルトヘイトのことを話してくれた最初の人さ。おれが南アフリカで何が起きてるのかを理解し始めたのがそのときさ。Peterからすべてを学んだんだ。
イ: このアフリカの経験があなたの音楽性や精神性へ影響を及ぼしたの?それ以降のあなたの音楽にアフリカの経験を結びづけることはできた?
S: おれにはすべては環になっていくように感じた。当時のおれはアフリカンにずっと影響を受けてるんだ。今もアフリカに立ち返っている。いまのおれは地面にタッチしている。大地に手を置くんだ。旅はまだ続けられるぜ。このことはむやみに人に話さないのさ。このことを質問してくれたことはすごくクールだ。Swazilandを思い出すぜ。そこで雲までのびる山を見たときになんて "Yes! Yes, Africa" って感じだった。山と空が交わるのを目撃できたんだ。'84年の出来事さ。
'83年はPeter ToshとSwazilandに行ってたから'84年はU-Royとカムバックしたのさ。おれらはCameroonとBeninに行った。蛇を掴んで写真を撮ったのはBeninだね(笑)この男が "この蛇は人を噛む。でも落としたりしなければ大丈夫。だから絶対に落とすなよ。" って言ってたんだ。(笑)
イ: (笑)その話が聞けてうれしいよ。だってTony Chinがこの写真を見せてくれたとき、彼はゲラゲラ笑ってたからね。
S: Yeah!
イ: あなたは蛇に噛まれないようにしているように見えるよ。
S: だってこれは毒蛇だぜ?おとなしい蛇だったけど、この男がそう言ってた。彼がおれの手に蛇を置くと、暖かかった。あの暖かさは内臓かな。しかも多分あいつはおれの手の上で楽しんでたんだ。しばらくしておれは言ったよ "こいつをとってくれ!" ってね(笑)まあ楽しかったけどね。
イ: Graduatesと演奏するのを止めて、後に伝説になるSoul Syndicateに加入したのが16, 17歳くらいでしょ?最初は「Riddim Raiders」と呼ばれてたよね?
S: 最初はそうだね。
イ: Tony Chinをインタビューしたとき、Soul Syndicateの結成時の話や最初期の話をしたんだ。Tonyの友達であるMaurice Gregoryがギターも弾けるシンガーで、Fullyも同じ。Greenwich Farmの路上でグループとして一緒に歌っていた。そうTony Chinが言ってたよ。
あなたとFullyは友人であり、あなたのステップファザーはFullyのお父さんと友人であり同じ会社に勤めていたことは今知った。
S: Yeah, Fullyのお父さんはおれのステップファザーの上司だったんじゃないかな。逆かもしれない。
イ: 彼らは共に溶接していたんでしょ?
S: Yeah, 彼らはPublic Works Departmentという会社で働いていた。CaliforniaのCaltransとかわかるだろ。彼らは道路や橋を修理していたんだ。そんな事業をやってる会社さ。
イ: どのようにSoul Syndicateのドラマーに落ち着いたのかを少し聞かせてほしい。
S: おれはFullyと共に育ったからね。家族ぐるみの付き合いさ。父親同士はさっき言った通りだし、おれのママもそんな感じだった。うちの家族とFullyの家族は今まで味わったことのない拡張された家族だった。そんな関係が構築されていたのさ。
今のおれはまたほかの人と家族になっている。Fullyのお母さんはおれにとってもお母さんなのさ。言ってることがわかるかい?Fullyのお父さん同じ。おれはFully家と繋がっていたのさ。
例えばおれのママがどこか出かけるときはおれをFully家に置いていくんだ。本当に世話になったよ。ご飯も食べさせてもらったし感謝しかない。Fullyはよく言うんだ "おれはSantaのベビーシッターだった。" ってね。それは本当だよ。これは繋がりなんだ。
イ: Graduatesで一緒になる前からFullyとあなたは知り合ってたってことだよね。その後、あなたがいきなりバンドを変えたのは何だったの?
S: まず最初に彼らはバンド隊でドラムをやっていたおれを知っていた。みんな口をそろえて"マーチングバンド" と言うんだ。そういうドラムをやっていたからね。おれが次のことを始めるなんて彼らは思ってなかっただろうな。一時はGraduatesと演奏していたな。
でもそれはすべてが素晴らしいことばかりじゃなかった。だってそれはおれが見れた場所の一部だったからね。成長するうちにもっといろんな場所に行きたくなったんだ。これがどれくらい天職なのかってことだよ。わかるかい?こんなにいろんな場所にいけてさ、自分のこととは思えないよ。まだ若かったから心配なんてせず突っ走ってた。でも機会は求めていた。
ある日の夜、人々は仕事から家に帰る時間帯におれも家に帰るのさ。East Avenueを通って家に帰るんだけど、その日はFullyの家に向かっていた。彼らの家は9th Streetにあったんだ。9th Streetを歩いているとFully家と仲のいい男が歩いてきた。バンドのことを知っている彼はおれに "Santa, Fullyたちがドラマーを探してるの知ってる?" と言った。当時はHorsemouthがバンドでプレイしてたんだよ。バンドは彼の後続を見つけることができていなかった。Dennyというドラマーが就職することになったんだ。彼はきちんとした教育を受けていたからね。彼にとって音楽は週末の娯楽だったけど、バンドはフルタイムで動けるドラマーを探してたんだ。
イ: Soul Syndicateがドラマーを探していることを路上で知ったんだ。
S: Yeah, そのことを教えてくれた男の名前はわからないけど、おれは彼のことをファミリーだと思っている。
彼が "Santa, Fully達がドラマーを探してるみたいだぜ。" と言ったから、おれは "まじで?" と言った。"本当だよ。彼らはドラマーを欲してる。確認してみな。" そう彼は言った。
おれはその日の夜Fullyの家に行って、こう言った "ドラマー探してること、聞いたよ。" おれがドラム隊にいたことを知っていたFullyのお父さんはおれに "おまえは彼らがやってるような音楽のドラムを叩けないだろ。マーチングドラムじゃないんだぞ。" と言ったんだ。でも彼はほんのジョークで "ここでドラムをプレイできるのか?" と言った。おれは "Okay." と一言返してやったよ。
彼らは夜6:30から7時の間からリハーサルを始めた。Clarendoniansというグループがいた場所でおれは最初の曲のドラムを叩いた。その曲はClarendoniansの持ち曲で「Funny Man」という曲。アップテンポなレゲエ且つおれが慣れ親しんだ曲だった。その場にはおれにはこういうドラムが叩けないだろうという予想があったんだけど、おれがプレイすると場が急に火が付いたように盛り上がったんだ(笑)その後Fullyのお父さんがこう言った "Oh, おまえは子のドラムが叩けるというのは本当だったんだな。" それ以来ずっとおれはずっとドラマーさ。
イ: その時Tonyは居たの?
S: Oh Yeah, yeah.
イ: あなたとTonyはその前から親しかったの?その時ってTonyがSpanish Town Roadに住んでいた時期?
S; Yes! 彼は近所には住んでいなかった。おれが住んでいた場所から何ヤードかいった場所に彼の家があった。Tonyはとってもお洒落なんだ。知ってる(笑)
イ: (笑)今でもめっちゃお洒落だよね!
S: Tonyは着飾るのが好きなんだよな。彼はElvis Presleyみたいなvibesがあったね。昔はシュっとしてたしね。おれは彼と親しかった。友達の友達なんかじゃない。Tonyは会うと必ずギターを持っていた。
イ: Tonyとのインタビューで、Soul Syndicateの歩みを続けられた要因のひとつはFullyのお父さんがたくさんの音楽機材の資金面を援助してくれたことだと話していたよ。ギターだとかアンプだとか。
S: Yes, yes.
イ: Fullyのお父さんはバンドの練習を見てたんじゃないかな。そんなこと覚えてる?その時にはあなたはバンドメンバーだったんだよね。
S: Yes, Yes. Fullyのお父さんはバンドを推進させるエンジンだった。彼は本当にグループを愛していた。なぜならFullyのお父さんは我が子が音楽を愛していることを知っていたからね。ギターも与えていたし、Fullyがベースが好きだとわかると、Fullyにベースを与えていたな。
イ: Fullyのお父さんはFullyを勇気づけていたの?
S: Yeah. 彼はすべての機材を買い与えていたよ。おれらが手も出ないような代物をね。Fullyのお父さんは "これくらいできるんだぜ" って感じだったよ。彼は機械周りの仕事をだったからシンバルスタンドを作っていた。そんな感じのものなら作れるのさ。drum throneとかね。ベストじゃなかったけど、そうやって貢献してくれたんだ。なぜなら他のグループはピカピカの機材を持っていたからなんだ。おれらはFlinstoneの時代からタイムスリップしてきたみたいな機材だった(笑)でも苦労してるんだよ(笑)
イ: 10月にJeremiah Showで行われたMike Gormleyとのインタビューにて、初めてWailersとのレコーディングは1971年か'72年のDynamic Studiosだと言っていたね。
S: Yeah, その辺の場所だね。
イ: あなたは忘れがたいほど美しい曲「High Tide or Low Tide」を演奏していたね。


S: Yes, あれはバラードみたいなものだったね。
イ: あの曲大好きだよ。Wailersがドレッドを始める前と言ってたね。
S: そうだね。
イ: Wailersとの初レコーディングで他に覚えていることある?
S: あれは旅のほんの一部さ。まさしくそんな感じさ。おれは彼らの音楽を聴いて育った。彼らがStudio Oneにいた頃や、彼らが「Wailing Wailers」だった頃、三人組になった頃、すべてさ。
オーディエンスはひとりの人間のために足を運ばなかった。バンドの方を好むんだ。そっちの方がわかりやすいだろ?おれらは毎日必死でリハーサルをやっていたからとてもタイトだった。バンドでvibesを共有してたのさ。
Lee Scratch Perryはおれらをブッキングしてスタジオに来るように言ったんだ。Wailersと一緒にプレイできることに気づいたおれは "wow" って感じだったよ。彼らを聴いて育ったんだ。言ってることがわかるかい(笑)いわゆるカルチャーショックってやつだよ。
イ: 憧れの人と音楽をやれたんだもんね。
S: Yes.
イ: 緊張した?
S: Yeah, もちろんさ!Come on, man.Wailing Wailersの話をしようぜ!あのころのすべてのサウンドシステムからWailersの曲が流れていた彼らは打ち立てられたのさ。
イ: あなたとWailersの「High Tide or Low Tide」のレコーディングの次のセッションはKingstonにあるRandyのレコーディングスタジオで行われたんだよね?
S: Yes.
イ: ファーストセッションにはLee Scratch Perryもいたとかいないとか......
S: Yes. 当時、WailersはCoxsone DoddとStudio Oneの下を離れたからだと思う。The Upsetter(Lee Scratch Perry)が 彼らのプロデューサーだったんだ。
イ: ラジオじゃなくても、彼らの曲はどこでも聞けるよね。
S: サウンドシステムがたくさん流してるはずだよ。ジャマイカのラジオはレゲエをかけたがらないんだ。
イ: 「High Tide or Low Tide」のレコーディング中、彼らに何か言われた?
S: おれはとても緊張していたんだ。でも緊張してるのなんておれぐらいで、彼らはとてもクールだった。彼らはリアルで、謙虚で、礼儀正しい兄弟さ。おしゃべりな人たちでもなかった。Seriousという言葉にふさわしい人たちだよ。それがおれが感じたこと。彼らとスタジオに入ったとき、彼らがどれくらいリラックスしてるのかってことに気づいたんだ。彼らは要求する際に無駄に叫んだりしなかった。彼らはおれに自信をつけてくれたんだ。vibesによるものさ。あの日からWailersとの友情があるんだ。わかるかい?
イ: それとSoul Syndicate?
S: Yes.

以上です。


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