見出し画像

サンプラー台頭前夜のKing Of The Beats〜Koolie Koo Koo(Pumpkinの甥)インタビュー(2016)

Pumpkinの甥にPumpkinの話を聞いている記事を見つけたので訳しました。

サンプラーが台頭する前、バンド隊がレコードの一部を弾き直すのがヒップホップサウンドの主流でした。

その時代に生まれた多くのヒップホップクラシックのドラムを叩いてるのがPumpkinです。

今回は甥のインタビューということで事実かどうかはわかりません。しかしおもしろいインタビューでした。

それではいきましょう。

※翻訳先のURLを貼りたいのですが、どうしても同サイトの胃が売記事になってしまうので今回は省略させていただきます。「pumpkin nephew interview」と検索すればトップに出てくる記事です。

イ: Pumpkinとの1番古い思い出は何?
K: おれは86年に生まれたけど、リサーチによってあたかもそこにいたかのようなのさ。
Pumpkinはいろんな楽器を操った。彼が学校に通ってるぐらい若いころから音楽を愛していた。おれのおじいちゃんには3人の息子がいた、兄弟全員ミュージシャンだったんだよ。兄弟の中でもPumpkinはいろんな楽器のマスターだった。そしてドラムが彼のお気に入りになったってわけ。
1977年あたり話を進めよう、17歳のPumpkinはFunky4+1と練習していた。Enjoy Recordsの最初のアーティストみたいな感じだった。おれが正しければPumpkinはFunky4+1の初期作である「Rappin’ and Rockin’ The House」に参加したはず。
彼らはでBronxにあったPumpkinのガレージで練習してたんだ。ガレージにはいつもPumpkinの演奏を聴きに人だかりができていた。面白いことに道路の向かい側に教会があったんだ。めちゃめちゃデカイ音を出してたけど、教会の人たちも特に問題は無さそうだった。Pumpkinはひたすらファンキーだったのさ。"外で鳴ってるビート聞いたかよ!?ありゃPumpkinだ。あいつはヤバいぜ!"


Funky4+1の誰かがEnjoy RecordsのオーナーだったBobby RobinsonにPumpkinのことを話したんだ。Bobby RobinsonはPumpkinのガレージを尋ねた。これがPumpkinが見出された理由さ。Enjoyの赤いラベルには「Produced by Bobby Robison」や「Music by Pumpkin and Friends」ってあるだろ?Pumpkinは1人で全ての音楽面の責任を背負ってたんだ。彼は若くしてヘッドプロデューサーだった。Robinsonと会ったときは少なくとも16歳だったわけだからね。
Pumpkinはバンドガイだったから "おれをバンドに入れてくれ!ベース、ギター、ピアノもできるから!"って勢いだった。
Pumpkinはヒップホップが出すべき音についてのアイデアを持っていた。後に、彼が行ったサンプリングは既存のレコードの弾き直しだった。
Funky4+1の最初のレコードである「Rappin’ and Rockin’ The House」でPumpkinはCheryl Lynn「To Be Real」を弾き直して親しみやすいサウンドにしたんだと思う。
なぜ多くのレコードに「Pumpkin and Friends」と表記されているかというと、Bobbyがレコーディングで必要な時だけPumpkinと一緒に演奏するミュージシャンをかき集めたからなんだ。さすがのPumpkinでも同時にいくつもの楽器を演奏することはできないからね。最初にトラックを作った後にラッパーがラップをする。これが当時のやり方さ。
イ: Pumpkinは「Love Rap」でコンガを演奏してたよね。
K: いいや、彼はドラムだよ。コンガを叩いてたのはPoochy Costello。彼はSpoonie GeeとBobby Robinsonと知り合いだったんだ。
ドラムはTower of Powerの「Squib Cakes」と呼ばれたアルバムからきている。Tower of PowerのドラマーはDavid Garibaldi。Pumpkinは彼からものすごく影響を受けていた。
Pumpkinは聴いたものをなんでも弾き直すことができた。ドラムビートだろうが、キーボード、ベースラインさえもね。Fearless Fourの「Rock It!」の元ネタはKraftwerk「Master Machine」で、「Heartbeat」の元ネタはTaana Gardner「Heartbeat」。Fearless Fourの「It’s Magic」はCat Stevens 「Does A Dog Have A Doughnut」って具合にレコードを再構築した。それがPumpkinさ。
イ: PumpkinはEnjoy Recordsの仕事に見合った報酬を貰ってたの?
K: Disco FourのGreg G曰く、PumpkinだけでなくEnjoyのバンド全体で600ドルを受け取っていたらしい。それが年俸なのか、一回のセッションの額なのかはわからない。少なくとも報酬は出てたらしいよ。
おれはEnjoy Recordsのエンジニアを務めたFrank Zellarと話した。Bobby Robinsonはdoo wopの時代から業界にいて、Harlemにレコード店を構えていた。Bobbyは夜遅い時間まで店から出てこなかった。Enjoyのセッションは夜10時から朝5時までManhattanのスタジオで行われていて、Bobbyはいつもその様子を見に行ってたとFrankから聞いたよ。
でも彼は2,30分時間があると、長椅子で寝ちゃうんだって。Bobbyはお年寄りだったからね。FrankとPumpkin率いるEnjoyのバンドは1ヶ月に2枚のレコードを作ってたみたいだよ。
Pumpkinは82年までEnjoy Recordsにいた。Enjoyのスタジオ周辺には関係者じゃない3,40人の子供たちが走り回っていた。レコードのために子供の声を録音したりしていた。でも彼らはブース内には入れなかったよ。ただコントロールルームにいるって感じだった。あたかもパーティーが開催されてるみたいだったね。でもそれがEnjoyが求めていたフィードバックだったのさ。
Enjoyの人間の多くがSuge Hillへ流れた。Treacherous Three, Grandmaster Flash and the Furious Five. Pumpkin、Pumpkinは「Superrappin'」も手掛けた。


イ: Spoonie GeeさえもEnjoyを離れたよね。彼はBobbyの甥なのに。
K: 確かに。Spanish Flyとthe Terrible Twoの「Spanglish」はラテンに影響を受けた最初のレコードであり、ディスレコードさ。なぜならPumpkinはEnjoyにいたグループをSuger Hillへ呼んで同じようにプロデュースしてたからね。Pumpkinはヒスパニックの家系だった。おれの父方はコスタリカ系なのさ。Pumpkinはスペイン語も流暢に話せたから誰とでもコミュニケーションがとれて、皆から愛された。ブラックでありスパニッシュだからね。
当時のマーケットはシングル中心だった。Pumpkinはレーベルにビートを売って流行を作った最初のプロデューサーさ。
Holiday RecordsのNice and Nasty ThreeやOutlaw Four「Million Dollar Legs」、Fantasy Three のすべてはPumpkinによって手掛けられた。
Fearless Fourはメジャーレーベルにピックアップされた最初のヒップホップグループ。彼らはEnjoyの後にElektraへ移籍して「Something New」を作った。Pumpkinもそこで彼らに「Just Rock’」や‘Turn It Out」を提供したのさ。
Greg GはPumpkinにProfile Recordsに行くように説得した人物なんだ。
イ: Disco FourはProfileと契約してたからね。
K: そう。Gregは "おまえがEnjoyから見合った金を貰ってないことは知っている。なぜProfileに来ない?"みたいな感じだったらしい。
ProfileはPumpkinに前金として2000ドルを渡した。当時では大金だったんだぜ!PumpkinはProfileの専属プロデューサーだった。それが彼の契約の構成要素さ。
PumpkinはDr. Jekyll and Mr. Hydeをプロデュースし、「Gettin' Money」を制作した。「King of the Beat」は彼名義のシングルさ。「Here Comes The Beat」やThe Masterdon Commiteeの「Funkbox(Party)」、「Funkbox 2」、「Gonna Get You Hot」、そしてDisco Fourの「Throwdown」、「School Beats」も同様に彼が関わっている。「Here Comes That Beat」はDisco FourのGreg GとMr. Troy、Fresh 3 MC'sがフィーチャーしている。


Fly Ty-roneとDJ GalaxyそしてDr. Jekyll and Mr. Hydeらはコンピレーションレコードを作ろうとしていた。これがPumpkin and the All-Starsの名前の理由さ。レーベルメンバーみんなで一つのレコードを作るはずだったんだ。Pumpkinもそれを望んでいた。
Aaron Fuchs知ってるだろ?ラップだけではないヒップホップレーベル「Tuff City Records」の創設者さ。彼はたくさん旅行して、違うジャンルの音楽を組み合わせて超巨大なカタログを作り上げた。彼とProfileの間には零細レーベルの火花が散っていた。
おれに間違いがなければ、AaronはCold Crush Brothersの「Fresh, Fly, Wild and Bold」もPumpkinが関わっている。Aaronにインスピレーションを与えたProfileの仕事がずっと存在している。"おれも自分のレーベルを作って、奴らに食らわせてやる!"って具合にさ。そこからAaronはTuff Cityをつくって、Funkmaster [Wizard] Wizらを抱えたんだ。アーティストはPumpkinと繋がりがあったのさ。



Traedonyaに関して面白い話がある。彼女はストリート時代からPumpkinを知っていた。Pumpkinも彼女のお父さんか誰かを知っていたと思う。Pumpkinは彼女とタッグでスタジオに入り、彼女はビジネスを目の当たりにしていたんだ。Traedonyaはラップしたがっていたからね。Pumpkinは彼女の後見人みたいな立ち位置だったよ。
Traedonyaが最初に関わったのはSpoonieのレコード。フックの "Spoon, spoon, spoonie!" が彼女だよ。
Pumpkinのレコードを聴いてみなよ。誰がいるかなんて関係ない、ただ音楽的なディレクションなのさ。Pumpkinが "あそこに座ってる女性を知ってるか?彼女が無名なことはわかる。たがおれはレコードの中に彼女がいて欲しい" と言ったらその後何かが起こるぜ。
Aaronは言った "hey, Pumpkin おれはあんたに音楽を作ってほしい。もちろん金はだす。クレジットに名前を載せたいところだが、あんたはProfileと契約してるから「Produced by Pumpkin」とは記載できないんだ。" レコードが手元にあるなら見てみ?「Produced by B. Eats」や「Produced by Jack ‘O Lantern」ってクレジットされてるから。Pumpkinの本名はErrol Bedward。いくつかのレコードは「Produced by berrol Edward」ってクレジットされてるよ。AaronのProfile対策だよね。"おれはProfileのプロデゥーサーに働いてもらってる。奴らは知りやしない。もしこの事実にに気づいても、レコードのクレジットにはそんなこと書いてないし。"AaronはPumpkinにスタジオ機材を与えた。Linn Drumが出た頃さ。Pumpkinは短期間でLinn Drumをマスターした。生ドラムの経験がドラムマシーンに活きたんだ。彼のメイン機材はTR808とRoland keyboard synthesizer。Pumpkinはそれが生ドラムなのかドラムマシーンなのかを教えてくれなったとSilver Foxが言ってた。求めている音が鳴っているからね。PumpkinとProfileの間に起こったことは知らない。でもPumpkinは「Pumpkin Presents Errol Bedward」っていうアルバムをProfileからだすはずだったんだ。
イ: Puffy Deeと「Joe Blow」の話はある?
K: Pumpkinは女性が好きだったんだ。だからPumpkinはよくナンパしに行ってた。Puffy Deeはそんな感じで知り合った女性。‘俺と一緒にスタジオに行こうぜ’って感じでPumpkinは彼女をTuff Cityに連れてった。
Pumpkinはミュージシャンとしての視野を広げたかったからかヒップホップだけに留まれなかった。Pumpkinはクラシック、スパニッシュ音楽、ジャズ、フュージョンもプレイしていた。Profileはそのプラットフォームになろうとしていたと思う。
発売されなかったアルバムのことを知っているのはおれだけさ。Pumpkinのテープを持ってるし毎日聴いてるよ。彼が作曲してプロデュースしたR&Bのアルバムだよ。いろんなボーカリストが参加している。おれが知っている唯一の男のボーカリストの名前はJames ‘Crab’ Robinson。彼はChangeというグループのLuther Vandrossに取って代わった。
Pumpkinはラップだけに限定せしなかった。時がたつにつれてビジネスに対するフラストレーションを感じるようになったと思う。Andre HarrellとPumpkinは友人関係だったから一緒に音楽をやっていた。Dr. Jeckyll and Mr. Hyde時代にPumpkinはAndre Harrellを呼び出してこう言った。「おれは今すぐおまえにショーの仕事を与えれる。来いよ。お前のポケットを何百ドルもの金でパンパンにしてやんぜ。」Andre Harrellは言われる通りにショーのフライヤーにPumpkinの名前を載せた。実際の現場にPumpkinはいないんだけどね。そんな胡散臭い話だろ?AndreはMCAのUptown Recordsとのビッグディールを得た。それはAndreを経由したPumpkinへのビジネスの機会になることを意味するんだ。Pumpkinは "違う、おれはそんなこと求めてない。"これは「Here Comes That Beat」でスクラッチをしていたDJ Galaxyだ。
Pumpkinは Vintertainmentのオーナーであり友人のVincent Davisへの次のドアに向かっていた。Vincentは音楽の売り方を知っており、Pumpkinは音楽の作り方を知っていた。VincentはKeith Sweatを見出した。'87 '88 '89ぐらいかな?彼の人生は後半になるにしたがって、"もうラップはいい、うんざりだ。"って感じになっていくんだよね。
イ: Pumpkinが最後にクレジットされたのは1992年のBusy Beeの「Jail Bait」だけど、いつ作られたのか知ってる?
K: Busy Beeと話した時、そのレコードはBusy Beeの音楽の始まりだったと言っていた。彼らはアルバムを完成させなかった。でもPumpkinが死んだことでBusy Beeはなりふり構わず完成させようとした。
おれのじいちゃんは床屋だった。キャデラックを持っててさ。じいちゃんの友達はいつも言ってた "よう、今日の朝四時にBrooklynでおまえのキャデラックが走ってるのを見たぞ。ありゃおまえか?" じいちゃんは "おれじゃない、Pumpkinだ"って感じさ。じいちゃんはたくさんの量のパーキングチケットを持ってたから、Pumpkinはそいつで車を停めてセッションをやってた。そうやってPumpkinが音楽に時間を割いたのさ。


イ: Pumpkinはなんで死んだの?
K: Pumpkinは肺炎で死んだとされている。おれはSandra Williamsっていう女性と話した。Pumpkinのバンドメンバーだった彼女は、Pumpkinと日本に訪れていた。彼は咳をしていて、体調が悪そうだった。彼は帰国し、数週間後に息を引き取った。
イ: そのとき彼はいくつだったの?
K: Pumpkinは28歳ぐらいだった。肺炎によって若くして死んだんだ。肺炎で誰かが死んだ報せを聞いたとき、特別に感じるだろうな。誰も知りたくない理由で死んだんだ。彼がここにいないことは不幸としか言いようがない。しかし彼のレガシーは永遠だ。

以上です。

Pumpkinは晩年に日本を訪れていたのは驚きです。もし彼が生きていたらどんな音楽を作っていたのでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?