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好きな表現を探す旅

久しぶりに美容院に行った。3 年ぶりにショートボブまで短くして、軽くなった頭をぺんぺん揺らしながらひとりでにやつく。帰りにいつものミルクティーを買い、神社のベンチで飲んだ。

「髪切った?バッサリいったね〜!!」

ミルクティー屋のおじさんが話しかけてくれたので、なんだか気分が良くなって、ポテトとひき肉のキッシュまで買ってしまった。

公園に行くと、少し前まで空の青をずっと深くしたような宇宙みたいな色をしていた紫陽花は枯れていて、代わりに虫や鳥の声はうんと煩く、あかるくなっていた。

そしてアイツが今、猛威を振るっている。文月だからね、ブーンブーンってか。ああかゆい。かゆいかゆい。

最近noteを書いていなかったけれど、これにはいくつか理由がある。

いつもより少し仕事が多かったこと、2、3 ヶ月に一度は勃発する夫との家庭内別居がやや長引いたこと、自分の好きな表現を探したり、インプットしたりしていること。主にこの 3 つだ。

ひとつめはいいことだから置いといて、ふたつめは話しはじめるとキリがないのでやめておく。

好きな表現を探す旅についてしゃべりたい。

6 月は 8 冊くらい本を読んだ。わたしにしては多い。8 冊くらい、というのは、短編やエッセイ、詩や短歌など本の一部だけつまみ読みしたものもあるからだ。 

もともと多読・速読する人間ではないし、最近は好きな箇所や気になった箇所をかならずメモしながら読んでいるので、がんばったほうだと思う。

小説は、過去に文体が好きだなと思ったことのある何人かの作家の作品を読んだが、けっきょくだれの文章がいちばん好きかと考えたとき、王道の江國香織にたどりついた。

わたしの読書量のピーク、小学校高学年の頃によく読んでいた作家だ。高校から大学生くらいになると、「江國香織が好き」な女子があまりにも多いことに気づき、とつぜん敬遠しはじめ、つい最近まであまり読んでこなかった。

しかし、好き、の感覚はそう簡単には変わらないらしい。そして、いいものはいい。それが真実だった。

押しつけがましさや説教じみたセリフが少ない、描写が上手いのだが緻密すぎない、理性でなく感性で書かれている感じがする、というのがおそらく好きなところ。

くわえて、作品にもよるが、登場人物が前向きすぎない、がんばりすぎないのもいい。

あれ、うまく行き過ぎでは? とつぜん人が変わりすぎでは? 脳内お花畑すぎでは?みたいなところも少なかった。不安定でよくわからない人間が登場するのもいい。これはあくまで主観だし、好みの問題だ。印象論だ。全作品を読んだわけではないし、感じ方は人それぞれなので、当たらない部分もあるだろう。

そしてわたし自身だって、時期によっては他の作家のほうが好きだと思うのだろうし、これからあたらしく出会う作家の作品にひとめぼれすることもあるだろう。

最近は詩歌にも興味が湧いている。

読む側としては、昔からストーリー全体やメッセージ性よりも、一つひとつの表現やセリフ、言葉の組み合わせ、雰囲気を好きになるケースが多いこと、昔、母親が好きな金子みすゞの詩集を読み漁っていたのでなんとなく懐かしさを覚えること、そしてこれまであまり触れてこなかったので単純に楽しんでみたいと思ったこと、が理由。

書く側としては、自分がきまぐれ短距離走体質であり閃きに頼る割合が大きいこと、細かい言葉遊び・言葉いじりが好きなこと、あとは読むほうといっしょで、表現の幅を広げたいことが理由だ。

自分がどんな表現をしたいのか、どんなものをつくるのが好きなのかは一生探り続けていたいし、分野に関係なく、いろいろなものに触れたりつくったりすることで表現全体に反映させていきたいとも思っている。

正直にいうと根本的に飽き性なんだけど。遊びたいだけなんだけど。

よくもわるくも、比較的すぐにできあがってすぐに SNS で反応をいただけるタイプの作品作りに慣れてしまった。もともと根気強い人間ではないが、ますますそうなってしまった。

上手くいくかどうかわからないものに懸けて何ヶ月もがんばることができない。安全なほうを選んでしまう。

SNS などで反応をいただけること自体はとてもありがたいし、今の時代においてはとくに外せない、大切なことだとも思ってはいるのだけれど、器用にいろんなことを並行できないわたしとしては、この辺のくせも、ぶち壊したい。ぶち壊さないとほんとうに創りたいものを創れないままいつのまにかおばあちゃんになっている、みたいなことが起こりかねない。

にしても前途は多難だ。そもそもマルチタスク無理無理人間にとって、仕事をしながら家事(一般家庭よりも量は少ない、料理あんまりしないし、子どももいないし)をして、本を読んで、コツコツ何かを進めるというのは至難の技である。

一度だけ、2、3 ヶ月で 16 万字の小説を書いたことがあるのだが、そのときは働かず、家事もほとんどしない、毎日のようにカフェに行って本を読んで創作するだけ、という理想郷にいるような、究極の無職だった。

心身共に疲弊しておかしくなっていたわたしの休息期間だったからなのか、なんなのか。仕事から帰宅した彼(今の夫)が毎日おいしいご飯を作ってくれていたのだ。今思うと自分やばいし夫すごすぎると思う。驚愕する。こういうのを思い出すたび、なんだか泣きそうになってくる。

久しぶりに書いていたら長くなった。自分のことをしゃべりすぎた。しゃべる相手がいなくて吐き出し口がなかったので大目にみてほしい。

文月だからかな。髪切ったからかな。

みなさま、良い夏を。

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