わたしはネギになりたい。
ネギを背負うことがある。スーパーの帰り道だ。
土曜日の昼、背負ったリュックからネギがはみ出した状態で自転車に乗る。
こんな感じで。
気づいたのだけど、この状態、なぜかいつも、
恥ずかしい。
人目が気になる。
自意識過剰の勘違いだったら申し訳ないけれど、二度見してくる女子高生もいた。
これってどうしてなんだろう。
ときどき考える。
実は、「ネギを背負う女」という名前のTwitterアカウントを作ってみたことがあるくらいには、ネギを背負うことについて考えていた。@negiwoseou とかだったはず。ネギを背負うことについてだけ、ひたすら喋るアカウントだ。自分でも頭がおかしいと思う。
Twitterに不審がられたのか、作ってすぐに何度も「このままだとアカウントが凍結されます」的なメールが届いた。ネギのことを何回かつぶやいただけなのになんで??とキレつつも、めんどくさくなってアカウントを削除した。意味のわからないアカウントをフォローする人はいなさそうだし、1ヶ月くらいでネタ切れしそうな気もしていたし、「まあいいか」と思った。
だからnoteで、この記事で、一度だけでいいから話してみたい。ネギを背負うということについて。
くだらないけど、なんの役にも立たないけれど、聞いてほしい。
***
「リュックにネギを入れ、先端から3分の1程度がはみ出した状態で担ぐ」
これがわたしがいつも、ちょっと恥ずかしいなあ、と感じている行為だ。
恥ずかしさや違和感を覚えるポイントは、たぶん3つあると思う。
まず一つは、物理的に「はみ出している」ということ。
容器でも袋でも、せっかく入れるならしっかりその中に納め切りたいと多くの人は考えると思う。できるものなら、買ったものをパズルのように組み合わせて隙間もなくして、安定させたい。ましてや細長いネギが1本だけ突き刺さったかのようにはみ出ている状態なんて考えられない。なんだか気持ち悪い。確実に目立ってしまう。
しかもリュックにはチャックがある。ネギがはみ出ていると、チャックを締めるのは不可能だ。その時点でリュックさんの立場としては想定外の事態が起こっている。物が一部だけはみ出る前提がないのだ(いつも左右のチャックでネギを挟む形で対処している)。
はみ出た状態は「普通」ではない。
二つ目は、買い物というと手さげで持ち帰るイメージが強いこと。
スーパー袋は手さげだし、エコトートも手さげ。買い物用カバンでリュック型のものは見たことがない。
そう、見たことがない。
リュックに食料品が入っていても、よほど透け透けの生地でもない限りは見えないから、「リュックに食料品が入っている」ことが外からわかるのは、ネギがはみ出しているときくらいだ。既視感がないから、めずらしくて変な感じがしてしまう。
3つ目は、ネギの位置だと思う。
リュックに入れてネギを背負うと、ネギの先端は頭〜肩の後ろにくる。
まるで刀を背負っているような感じだ。
ネギの刀。
手で持ち運んだり調理したりする限りでは、野菜がこの位置にくることってそんなにないと思う。体との位置関係も、まちがいなく違和感の原因のひとつだ。
ちなみに最初に載せた写真のように、運んでいるうちにチャックが広がったりなんだりで、ネギが横向きになってしまうこともしょっちゅうある。横に突き出すのも、それはそれで不思議な光景だ。ネギの長さにもよるが、リュックからのみならず体の横幅からも大きく「はみ出た」状態になる。ネギが人にぶつからないよう、距離感には細心の注意を払わなければならない。
こんな感じで考えていくと、キーワードはやっぱり「はみ出している」ことだ。物理的にもそうだし、常識や「当たり前」の光景からも「はみ出している」。だからきっと、恥ずかしいという気持ちが芽生えたんだと思うし、二度見する人がいるんだと思う。
***
この結論を踏まえて、じゃあわたしはどうするかというと、何もしない。引き続き、ネギを淡々とリュックに入れて背負い、自転車で家路を駆け抜けるだけだ。
恥ずかしい気持ちは多少あるけれど、慣れてくると、誇りに思えるようにもなった。
「ネギがはみ出した状態で、二度見されても平然と駆け抜けられるの、すごくない?」と。
昔からそうなのだ。
恥ずかしいなんて思ってちゃ前に進まない。
そう思わないと生きてこれなかった。
「常識からはみ出したとしても、平然と(人生を)駆け抜けたい」
という願望のあらわれでもあるのかもしれない。
本当に自分の都合の良いように解釈しすぎだと思うけれど、はみ出たネギはたぶん、わたしの同志だ。いや、目標だ。
わたしはネギになりたい。
たとえはみ出していても、シャキッと背を伸ばしているネギに。
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