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変わらない味、変わりゆく関係

年末の帰省時、母はおいしいご飯をたくさん作ってくれた。

「これ、新聞にのっていたレシピで作ったのよ」

食卓にやってきたのは、さつま芋とりんごの甘煮だった。小皿の上にちょこんと乗った冬の味はとろりと甘くて、ちょっと酸っぱい。ほくほく、しゃきしゃき。ふたつの食感があわさって、口のなかで弾けた。

「これ、炊飯器で作ったのよ」

食卓にやってきたのは、プレーン味のパンだった。大皿の上にどんと乗ったかたまりはお月様のようにまんまるで、ほのかに香ばしいかおりを漂わせている。手でちぎるとふんわりとほどけて、口に含むと自然な甘みに心が安らいだ。

どれも、のどかで平和な味がした。朗らかで明るい味がした。

けれど、いちばん心にのこった料理は、焼きそばだった。市販の麺とソースに、小さく刻んだ豚肉と野菜が入った、ただの焼きそば。何のひねりもない、素朴な味だ。

その焼きそばを食べたとき、私は胸をどんと突かれたような気持ちになって、言葉を失った。こみ上げてくる何かを抑えて、「これ、懐かしい」と言った。

母のことが、ずっと苦手だった。

想起されるイメージといえば、暗い部屋に引きこもって寝ている母、電話口で泣いている母、愚痴や悩みを延々と話し続ける母、ヒステリックに大声で怒る母。

人一倍不器用で、生真面目で心配性で、自信がなくて、優柔不断で、傷つきやすい母は、いつも何かに悩んでいて、辛そうで、不幸せにみえた。繊細で敏感で、落ちこみやすい性分に、仕事や人間関係、家族関係のストレスが加わり、当時の母は追い詰められていた。

姉妹二人を大学に行かせるために始めたパートで稼いだお金は、母自身のために使うことはなかった。たまに自分のものを買うために家計からお金を使うと、罪悪感で辛いと言って泣きそうな顔をした。

化粧もお洒落もせず、友達に会うこともめったにない。お金がかかるから、と言って、趣味を見つけようともしない。家事や料理をするときも、いつも億劫そうにしている。毎日のように辛い辛いと口にする。疲れた、だるいと口にする。いつもうじうじと悩んでいる。すぐに泣いたり怒ったりする。

私はそんな母のことを、哀れんだり、見下したりしながら生きていた。恥ずかしいと思っていた。こんな大人にならないようにしよう、と反面教師のように思っていた。その気持ちが直接態度にあらわれることもあった。

どんな理由であれ、母がいつも苦しそうにしているのがいやだった。苦しさで家のなかを埋め尽くされるのが耐えられなかった。目にするたびに気が滅入った。ずるいと思った。だれだって多少なりとも辛いことを抱えて生きているのに、仕事も家事も当たり前のようにこなしているのに、大人のくせに、みっともないと思った。

そして苦しみの一端を自分が担っていることに罪悪感を覚えた。たとえば私が東京の大学に行かなければ、母は苦しみの原因のひとつ、仕事から解放される。お金を使う罪悪感が軽くなる。彼女の苦しみを踏み台にして自分ばかりが前に進んでもいいのだろうかと、学校の先生に泣きながら相談したりもした。

けれど、そこには矛盾があった。もし私が母の影響で何かを諦めたり、不利益を被ったりすれば、母はさらなる罪悪感を覚え、自分を無力だと思って苦しむのだ。一生、自分を責め続けるのだ。私がどこに進学しようと、どんな道に進もうと、母はきっと、どこかで苦しむ。それならば、環境が許す限り、私がしたいようにすればいいと思った。

母は、彼女自身の人生をとっくに諦めているようにみえた。「私には何もなくて惨めだ」「生きている価値のない人間だ」とよく言った。

だから私には、何かなくてはならなかった。母の辛さを補うだけの、「特別な、価値のある何か」がなくてはならなかった。直接的な言葉にはされなくとも、私に寄せる大きな期待や人生の投影のようなものが言動の端々から伝わってきた。母が苦しめば苦しむほど、私は「幸せ」になる義務を感じた。

そして幸運にも環境に恵まれ、だれからも強制されることなく、好きなように勉強をして「何か」っぽいものを手に入れることができた。たとえばそれは、東大に行くことであり、官僚になることだった。わかりやすい名前がついたものだった。

親のためでなく自分のために。母親のような自信を喪失した人間にならないために。自立した、凛とした女性になるために。平凡で窮屈で退屈な「何もない」人生にしないために。ちっぽけな家庭を飛び越えて、たくさんの人の役に立つために。

皮肉にも、母を見ていたからこそ余計に、学歴を手に入れたい、仕事に打ちこみ「何か」を手に入れたい、実現したい、と思ったのだった。

私は上京し、就職し、一人で暮らし、二人で暮らした。

その間に、たくさんの人や出来事に出会った。たくさんの壁にぶつかった。

大学に行ったって、職についたって、一人で暮らしたって、二人で暮らしたって、目の前にはただ、過ぎゆく時間があった。朝起きて、夜眠るまでの地味で地道な生活の繰り返しがあった。だれかとの、一言一言のやりとりの積み重ねがあった。

「特別な、価値のある何か」なんてものは幻想で、きっと何でもなかった。世界は、ちっぽけなものが集まってできていた。ちっぽけだけれど、びっくりするくらい大事なものが、集まって。

私は仕事も家事も、「当たり前」のようにはこなせなかった。辛さや理不尽に何年も耐え忍べるほど強い心身をもっていなかったし、組織内では要領よく振る舞えなかった。うじうじと悩むこともしょっちゅうあったし、ときには疲れて寝こむこともあった。仕事を辞めてお金がなくて、罪悪感や無力感に苛まれる日も多かった。

ズボラで抜けているところが多く、テキパキと掃除や料理をこなせる器用さもない。簡単そうなことが簡単にできなくて、自分に腹が立ったり、落ちこんだり、イライラすることもある。人とぶつかることもある。できないところばかりが目について、ずんと沈みそうになったり、投げやりになったりする日もある。

“平凡で退屈な生活”は、築きあげることも、続けることも、ものすごく、大変だ。

あの頃、大人なのになぜできないの?と母親のことを馬鹿にして、哀れんで、ときには言動で示し、責めてしまった私は、大人になってから、私自身の首を絞めていた。

大人なんてものは、ただの概念でしかない。

大人になれば何でも完璧にできるようになるわけではないし、大人になれば矛盾のない、バランスの良い人間になるわけでもない。

大人だから失敗しないわけじゃない。大人だから落ちこまないわけじゃない。大人だから辛くないわけじゃない。

大人だから弱音を吐かないわけじゃない。吐いちゃいけないわけじゃない。

理想の完璧な大人になれない自分を認めることによってはじめて、私は母の苦しみのカケラを少しだけ心と体に取りこみ、母という人を、一人の人間として認め、受け入れられるようになったのだった。自分勝手なものである。


母の焼きそばを食べた瞬間に思い出したのは、仕事で母がいない夜の食卓だった。

母は毎日、辛そうにしていたけれど、夜に仕事にでかけるときは、必ず晩ご飯を作ってラップをかけ、テーブルに置いておいてくれた。お腹を空かせて家に帰ると、ほんの数分チンするだけで、私は温かいご飯にありつけた。ときどき作ってくれるメニューのひとつが、幼い頃からの定番メニュー、焼きそばだった。

当時の私は、多少は感謝しつつも、やはり当たり前だと思っていた。母親だから、当たり前だ、と。またこれか、手抜きだな、とつぶやいてしまったこともある。テレビCMにでてくる、いかにもおいしそうな、鮮やかな彩りのご飯に憧れて、気分が下がったこともある。

けれど、久しぶりに焼きそばを食べてこみ上げてきたのは、懐かしく、温かく、切ない感情だった。肉の旨み、野菜の食感、ソースの匂い。すべてが私を幼い頃に、子どもの頃に、思春期の頃に、引き戻した。その淡い記憶は、焼きそばから放たれる湯気のように私の心をふわりと包み込んだ。目に涙が溜まった。

何十回、何百回と食べてきた味は、今も変わらずそこにあった。とてもやさしい味だった。胸の震えが止まらなかった。柄でもないが、愛だ、と思った。

あの頃、母はどんな思いで焼きそばを作っていたのだろう。どれだけ大変だったろう。

質素でも、凝っていなくても、その焼きそばは、世界にひとつしかない母の料理で、母の味だった。おいしかった。

子どもを産むのも育てるのも、親のエゴだと思って生きてきた。今も八割くらいはそう思っている。けれど、母の焼きそばを食べたとき、もうそんなのは、どっちでもいいんじゃないかと思った。

姉妹二人が就職したタイミングで、母はパートの仕事を辞めた。肩の荷が下りたのか、母は見違えるように明るくなり、表情がやわらかくなった。

たまに帰省すると、テレビや新聞で見つけたレシピでこんな料理をしたんだ、と楽しそうに話す。私が食べる様子を見ながら嬉しそうな顔をする。私はその顔を見てほっとして、可愛らしいと思うようになった。

最近、母親からのメールにこんなことが書いてあった。

まほのエッセイを読んで、登場するお店に行ってみたいと思いました。まほが歩いた道を歩いてみたいと思いました。お母さんはまほに愛情を注いで育てられたのだろうかと最近よく思います。もっと何かできたのではとか、もっと話して教えることがあったのではないかとか、18までもっと優しい言葉をかけてやれば良かったのではとか。いくら思っても過ぎた日ですが。

肩が震えた。

正直言うと、今でも母に対しては、苦手だな、と思うときがある。母に限った話ではないが、家族といっても他人だな、と思う。ずっと近くにいるのはむずかしいと思う。冷徹かもしれない。でも私は距離をとることで自分を保って生きてきたし、これからもそうするだろう。

それが、相手の苦手なところと可愛いところ、両方をそのままに、フラットに受け止め、矛盾する好き・嫌いの感情の波に飲まれないようにする術だと思っているからだ。

けれど、もし今、あの頃に戻れたら、母にもっと優しい言葉をかけたい。たまにはとなりに並んで、一緒に景色を見ながら、一緒に歩きたい。歩く努力をしたい。

優しい言葉をかけていたら、お礼を言っていたら、家事を手伝っていたら。一人の人間として、もっと寄り添っていたら。

母の言う通り、いくら思っても過ぎた日の話だし、当時の私にたくさんのことを求めるのは酷な気もするが、そう思わずにはいれられないのだった。

今年は外出自粛もあって、なかなか帰省できそうにない。結婚式を挙げようと思っていたけれど、それもどうなるかわからない。

実家においしい食べ物でも送って、ちっぽけな幸せを共有できたらいいなと思う。


お母さん。

「何もない」なんてことは、ないからね。とにかく今は、心も体も、健康でいてください。元気でいてください。

幸せでいてください。



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