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自分を認める理由

「自分を認めること」これは集中について考えていく上で整理できる気がする。

という事で、いきなり集中から
(結論だけ見たい方は「自分を認める」から)

「集中」

「集中する」この言葉には主語がある
それが意識だ。
意識を集中するとはどんな状態だろうか
僕は、意識の焦点が動かない事だと思うのだ。

意識には面白い性質がある。
同時に一つの事しか(しっかり)認識できないのだ。

ナスとカエルとを同時に考えることができるだろうか。
難しい、何故ならナスとカエルは別のものだからだ。
ナスとカエルには境界線がある。

ではナスの上にカエルが乗っているところを想像してみてほしい
これは意外といける
何故なら「ナスの上に乗ったカエル」という一つの概念にまとまったからだ。

これは他のことにも言える。
例えば47を裏から見た形を考えてみてほしい
難しい。

でも47を裏返しにするところを想像すると
これが意外といける。
これも47と47の裏側という概念ではなく
47という、一つの概念を変化させず
回転させたからだろう。

私は算盤を習ったことはないが、算盤は概念を一つにまとめる仕組みではないかと思っている。

ここまで書いてきたことを軽くまとめるとこうだ
意識は一つの事しか認識できない
だけど二つの概念もガチャっと融合させれば、同時に意識できるということだ。

意識が一つの事しか認識できない
そう考えるとシンプルになる。

何故なら頭の中では意識と
その意識が見ているものの二つしかないことになるからだ。

「意識」と「一」

という事で、意識とそれが見ているものについて考えていきたい。

少し話がと飛ぶが、私は瞑想をしている時
この先に自分は存在しないのではと感じたことがあった。

変だと思うだろうか
これが意外と真面目なのだ。

少しスピリチャル的な問いに聞こえるかもしれない。

だけど考えて欲しい。
もし自分すら消え去り
区切りのない世界に存在できたら

意識はどれくらい広がるんだろうと。

意識は0と1の間を認知しているのかもしれない。
普段は0から5までの間を、移動しながら景色を眺めているの。
(のかもしれない)

しかしもし0と1しか存在しなかったら。
(0と1のあいだ)

その間に何が存在するのだろうか。
大きさは意外と適当だ。

例えば1キロは結構長い。
しかし1ミリは短いと言えるのだろうか。
1ミリの間にする無限の数が存在する。

頭の中では1ミリと1キロも大した違いを持たないのだ。
何しろ1ミリを拡大すれば1キロ以上に無限に近づくから。

もし区切りのない認識の中に入り込めたら、そこには無限の広さがある
そう思うのだ。

一つ

少し話が逸れてしまったが「一つ」には魅力がある。

境界の無い世界に存在していることを想像してほしい

悲しさはなく、孤独もなく。
蔑みもなく…

対象があって初めて生まれる感情は全てなくなる。

悲しみを感じているとしよう
何に対してだろうか
自分に対してだろうか、それとも存在そのものに対してだろうか。

美しい表現だ、だけどそれも境界があって初めて生まれると思うのだ。
何故なら自分そのものも無く、存在そのものを感じることができないから。
(もちろんそれは悲しい気がするのだが)

もし感情を当てはめるとするなら、多分安心感が一番近い。
そう思う。

そしてこの一つが自分を認めることのキーになる

自分を認める

なぜ自分を認めることが大切なのか
この問いに対してどう答えるか
それがここ最近の悩みだった。

ところが仮説が一つできたのだ。
少し自分の体験談を交えながら書いていきたい。

私は最近、私がなぜ「やらなければいけないこと」をしないかわかった。
ズバリきつからだ、疲れるかだ。
やろうと思いパソコンに手を伸ばす
ところが何故か、今やらなくてもいいと思う。

自分でブレーキをかけている。
何でブレキーをかけているのか、実はただキツイからなのだ。
「キツイから今じゃ無くていいのでは」と
当たり前すぎて、自分でも笑ってしまった。

ところがこれが大事なのだ。
つまり感情は動かない。

「noteを書こう]そう思ったとしようところが感情が
「めんどくさい、きつい」こうなる
そして一生懸命この感情にアタックするのだ。
「やらなければいけない」
「しなければいけない」
ところが感情は動いてくれない。
何故なら感情は対象があって初めて生まれるからだ。
では「めんどくさい、きつい」の対象は何だろうか。
それが自分なのである。

自分が「めんどくさい」
自分が「きついそう」感じている。

自分を認めるとは「めんどくさい」を作っている、「そう思っている自分」を認めること。
一つの概念として受け入れことなのだ。
受け入れることで対象がなくなる。
対象を失った感情も消える。
ここで初めて感情のブレキーがなくなり、課題に自らの存在をぶつけにいくことができるのだ。

感情にぶつかるのではく、課題にぶつかるには自分を認めなければいけないのだ。

感情を動かすには認めるしかない。
境界線を無くさなければ。
境界線をなくす、これが自分を認めるということなのだ。

そう思った

最後に

最初、この記事は「一つの事に集中」することについて書いていました。
自分を認めるは途中で考えついたものです。
思いついた時は思わずガッツポーズをしました。
少し読みにくいかと思いますが、想いが伝われば幸いです。

ではでは

















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