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意味と確信

人生、生きていく中で確信が増えていくと思うのだ。

やってみたいなと思って
やってみたら、上手く行ったり、行かなかったり

そんな事があったはずなのだ…
私にも

そんなふうに
自分の経験を通して
確信ができてくる
そう願いたい

だけどそんな願いを胸に秘めていると
何で自分が確信を持てるのか
自分がたてた仮説と、確信の違いは何なんだろうと
疑問が出てくるのだ

だって皿を投げたら割れると
仮説をたてても
それが確信に変わるのは皿を実際に投げた時なのだ

仮説って何だろう

もし仮説が
その仮説の中のストーリーとか要素に働きかけないと確信を得れないとしたら。

リンゴは青いという仮説がリンゴという存在によってでしか確信を得れないとしたら。

その仮説に確信を与えれるのは『実際に存在しているリンゴ』
になると思わないだろうか。

別に存在してなくてもいい
だけど存在していると思える『リンゴ』から確信を得るのではないだろうか

ふぅむ じゃあ何でそのリンゴが存在していると思えるんだよ
確かにそうなのだ。
どうやって存在してないリンゴに確信を宿すのだろうか

これには何通りかのアプローチの方法があると思うのだ。

アプローチ1

例えば思考や感情は感覚的なものだとする方法とかもいいのではないだろうか。
分かるというのは感覚だと
どうやって次喋る言葉を頭に生み出しているか感じてみてほしい。
ただ突然言葉は生まれてくるのだ。

前触れなく、いきなり顔を露わにするのだ
感覚的なのである。

意識もそうだ
ドミノ倒しのように
倒れている自分を確認しようとすると
次のドミノを倒してしまっている。

アプローチ2

だけどそれでも、『リンゴ』の妄想ができる仕組みを、考えるべきなのではないか
確かにそうかもしれない

景色を見ていると
様々なものが見える

人がいる
木もたっている
猫も歩いているのだるか

だけどだ
人がいると思った時
その人に手は存在しているだろうか
もちろん存在しているだろう
でも意識はしていない
ただそれも含め人だと思うと思うのだ。

これが人という区切りの中で言葉が消える瞬間だと思うのだ。

木を見て
葉や枝も見ている
だけどそれは木という大きな括りの中に埋もれている
そんな状態だ。

リンゴを見ているときもそうだ
リンゴの色や影
リンゴの模様は
リンゴという枠組みの中に溶け込んでしまっている。

木になっているリンゴもまた
一つのリンゴとは違う意味を持ちそうだと思わないだろうか。

違いがわかる

つまるところ
人間には要素を見つけす能力がある
そう思うのだ。

目の前にコップがあったとしよう
面白いことにそのコップから要素を取り出すことができるのだ
取手があるとか
ミツバチの模様が描いてあるとか

これはすごい面白いことだと思う
境界線を理解することができるのだ。

じゃぁ 境界線はどうやって見つけるんだよ
そんな疑問が生まれる

これは難しい
例えば四角い模様があったとしよう

四角く縁がとってあり周りと切り離されて見える
それだったら違いはすぐわかる

でも、もっと複雑な模様だったり
景色だったりしたらどうだろう

音の繋がりを
どこで切ればいいのだろうか

なんで違いが分かるんだろう

多分それができるのは
人間の意識が一つのことにしか集中できないからじゃないのかな、と
私はそう思うのだ

スポットライトが当たっているところと当たっていないところができる。
それだけでも違いを認識できると思うのだ

頭の悪そうな考えに聞こえるかもしれない。
だけど意外といい考えな気もするのだ

そしてだからこそ言葉がここまで強く
境界線を作り出す役割を持っているのではないかと思うのだ。

例えば空を指差し猫に
『空』と伝えたとしよう
この時私の中で
『空』は他とは区別された存在だ
『空』と叫びながら私の意識は『空』で一杯になる
空には雲もあるし、太陽もある
空は沢山の要素を含んでいるのだ

空の外には山があるのに
空は沢山の要素の位置の一部に過ぎないのに
私は『空』で一杯になるのだ。
(仏教とかに出てくる難しい空ではない)

だけど猫にとって私の華麗な動きは、意味を持たない
いつも通り、奇妙な生物がいるだけだ。
それよりもそいつの後ろにある
奇妙な動きをしている草の方で意識を一杯にしているかもしれない。

私は猫になったことはない
けれど猫が動くものへ注意を向けるのは
何回も見てきた

もし猫に意識があるなら
その時猫の意識はその『動くもの』で一杯になっているのではないだろうか
そう思うのだ。

もしそこに言葉が入り込んだら
猫は動くものの境界線をしっかりと認識する気がする。
どう記憶されるかは意外と大事だ。

ぼんやりと動いて様子を覚えるのと
『動いていた』という言葉で記憶するのは全然違う。
仮説が意味を持ちにくいのは
言葉によって作られるからだろう。

言葉と仮説

『人』という言葉は全てを語っているように思える
だけど細かいところは曖昧なのではないだろうか

世の中には色んな人がいる
僕だったら上の文章を見て
ウンウン
と頷いてしまうだろう。

ところが何で頷いたか聞かれると
途端に困ってしまう
(何しろ今文章を書きながら困っているんだから)

それは多分言葉が
周りとの違いによって生まれるからだと思うのだ
世界に『人』しかなかったら
『人』は意味を持たないのではないだろうか
『人』が有るか、無いか
もしくは両方含めて『人』になるのかもしれない

『人』は何と聞かれると困ってしまう
だけど『人じゃ無いもの』はすぐに答えれる

変化することと
変化するものを比べるより

変化するものと
変化しないものを比べる

仮説は自分の仮説によってさらに変化してしまう
けれど経験は変化しないものを見つけれる

私が想像するコップには
蜂の絵が描いてある
しかしそれによって
私の想像するコップは
蜂の絵が描いてあると思い込んだ
(蜂の絵を描いたコップだと確信した(と思っている))
コップになってしまう

だが実際のコップは
コップがあり蜂の絵が描いてあり
どちらも等しく存在していて
どちらも等しく存在していなくてもいい

だから蜂の絵のコップは
私に確信を与えてくれるのでは無いだろうか
何故なら蜂の絵が描かれているコップは
ただそれだけで意味を持たないからだ

確信は意味を持たないものなのではないか
ここまで書いてそう思った

でもだからこそブレがなく
確信たる要素を持つことができると思うのだ

確信には意味があって欲しいものだ
蟻が蟻である意味や
私が私である意味
ところが確信自体はそこに何の意味を持たせてくれない。

ただ有る事が分かって
そこまでの空間に何もないように感じる

結局確信はどうやって見つけてるの

となると
確信へのアプローチはかなり難しいものになる
何故なら
確信は確信だが
確信を得ようとすることは確信にはならなかいからだ

例えば今私が文字を書いているのは確信からだ

この文字を書こうとして確信が出てくるわけではない
その時の私はただ頭の中の妄想に浸っているだけになる

私の書いている文字には意味がなく
けれど私はその文字に意味を見出しているの

そうなると
確信をどう確信と思えるか疑問が湧いてくる

なぜんだら確信が確信とわかるのは
確信に意識が向いた時であり
そんな稀なことは滅多に起きない

例えば花は花だが
今文章を書きながら
(読みながら)
花という確信に触れることは滅多にない。

もしかした
確信を見つけ出すのではなく

ただ確信に意味を見出し
それが確信だと言っているだけなのではないだろうか

人生の中で確信にたまたま意味を見出し
それに呑まれているだけなのかもしれない

ここまで書いてそう思った

最後に

しっかりとした答えを出すまでには、至ませんでした。
かなり話が飛んでいる場所もあったかと思います
そんな中ここまで読んでいただき、感謝しかありません
有難うございます















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