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【小説】オドルサンパチマイク -side ひらり-


「はい、どうも〜、トメクマティックです!」
「僕がとめだと言いまして、こっちがくるめと言いますんでね。ぜひ名前だけでも覚えて帰ってください」
「あの、いきなりだけどさ、俺、漫才師じゃなかったらなりたかった職業があってさ」
「うん、なになに?」
「バイキンマン」
「バイキンマン?めずらし。アンパンマンじゃなくて?」
「アンパンマンなんかお前、なりたいやついねえだろ!」
「いや、いるだろ!バイキンマンのがいねえわ!」

寒空の下、凍えそうなベランダで聞いたその声を、ひらりは今でも鮮明に思い出すことが出来た。後々知ったことだけれど、それはどうやら漫才という演芸らしかった。






藤堂ひらりは、幼い頃、母の言いつけ通りに夜のベランダで2時間、あるいは3時間ひとりで待っていることが多々あった。
母は怒ったりはしなかったし、泣かずに待っていることが出来れば、ご褒美にアイスを買ってくれたりもした。

ただ、母の恋人が家に来ている間、その間だけ泣かずにベランダで待っていればいい。泣かずに待っていれば、また家に入れてもらえるし、褒めてももらえる。

だから、ひらりは耐えた。
どれだけベランダが寒くても、どれだけトイレに行きたくても、どれだけお腹が空いていても、耐えることが出来た。

それが虐待行為にあたると知ったのは、祖母に引き取られて随分経ってからだった。母と暮らしたのはその年までで、それ以降、ひらりが東京を訪れたことは一度もない。




祖母と暮らし始めてから11年が経って、ひらりは高校生になった。といっても、田舎の高校だから、中学の頃とクラスメイトはほとんど変わらないし、気は楽だ。

母と暮らしていた時の記憶はほとんどないし、この頃はもう母のこともぼんやりとしか思いだせないでいた。出来ればあの頃のことは思い出したくなくて、ひらりはもうずっとここで育ったように振る舞いながら生きていた。

だけど、どうしても、忘れられないことがひとつだけある。トメクマティック、そうあの漫才師のことだ。

ひらりは、どうしても、彼らに会いたかった。あんなに面白い漫才は後にも先にも、聞いたことがない。
ひらりの人生の"面白い"はトメクマティックによって形成されている、と言っても過言ではないのだ。




トメクマティックについて知っていることは、二人組の漫才師であること、名字がとめだとくるめ、だということ。11年前に下北沢にいたということ。これだけだった。

何度かネットで検索してみたのだけれど、トメクマティックというコンビ名では一件もヒットしなかった。おまけにとめだというお笑い芸人も、くるめというお笑い芸人もどんな漢字で検索しても出てこない。

見つからないと言われると余計に会いたくなるのが人間の性で、ひらりのトメクマティックへの憧れは日に日に積もるばかりだった。




チャイムが鳴ったのとほぼ同時に、ガタンと大きな音を鳴らして、きよかがイスをくるりと反転させた。スマホになにかを打っている。

「ねえ、そのさあ、ひらりが言ってる漫才師?ってさあ、本当にトメクマティックって名前だったの?」
「だから、そうだって」
「絶対?絶対の絶対の絶対?」
「絶対の絶対の絶対」
「じゃあ、なんで出てこないかなあ」
「解散したのかな」
「だとしても一件もヒットしないなんてことある?名前も出てこないし、そもそも本当に聞いたの?その声。幻聴の可能性ない?もしくは、、、幽霊、、、とか?」
「そんなわけないじゃん、なに言ってんの」
「だって出てこないのおかしいじゃん〜」

きよかが朝、コンビニで買ったいちごミルクを飲みながらゲラゲラ笑って言う。このトメクマティック幽霊説は小学生の頃から通算100回、いや200回は議題に上がっていて、結局いつも結論が出ないまま終わる。

「ま、とりあえずうちらも高校生になったんだしさ、夏休みにでも東京行ってお笑いライブ見てみようよ。話はそれからってもんよ」
「一緒に行ってくれんの?」と聞くと、「もち」ときよかが笑った。さっき塗ったばかりのリップが艶々と光る。笑顔が眩しい。

「まじでお笑いライブなんか行ったことないから楽しみだわ、やっぱプロっておもろいんかな?」
「トメクマティックは面白かったよ」
「はいはい、分かった分かった。あんたのトメクマティックはおもろいわよ」

きよかのくるくると巻いたロングヘアーがふわっと風に揺れた。

毎日こんなに気だるそうに生きているのに、彼女はかなり面倒見がいい。そして手際もいい。
夜行バスの予約も、お笑いライブのチケットの購入も気が付いたときには全て終わっていて、「じゃ、8月4日ね!」と日付だけ告げられた。




8月4日の昼公演。渋谷にある小さな劇場で、8組ほど若手の芸人が出るライブだった。
きよかが言うには大きいライブに出てる人は名前がヒットするはずだろうからと、わざと小さな劇場のライブを選んだとのことだった。
その理屈はもちろん分かるけれど、正直なところ本当に誰ひとり知らなかった。

きよかは来る前に予習していたらしく、3組ほど知ってると言っていた。本当に彼女は真面目なのか不真面目なのか几帳面なのか大雑把なのか時々分からなくなるけど、親友としてはかなり頼りになる人物だった。

この時にはじめて知ったことだけれど、劇場にはいわゆる場の空気を作るための盛り上げ役として、前説というものを担当する芸人さんがいるらしい。
今日はピン芸人のなんたらなにがしさんがそれだと受付で聞いた。

開演10分前になると、会場の照明が暗くなって、BGMがフェードアウトしていった。
同時に、おそらく前説のなんたらなにがしさんが舞台袖から飛び出してくる。


「どうも、こんにちはー!」


その声をひとこと聞いて、ひらりは確信した。心臓がドッドッと波打ち、全身に血が巡った反動で顔が赤くなるのが自分でも分かった。

ちょっと待って、絶対に、そう。
絶対に、そうだ。



きよかの太ももをバシバシと遠慮なく叩いた。もう自分では力を加減することが出来ない。

「ねえ、きよか、この人、絶対そう。絶対とめださん」
「え?まじ?」
「うん、絶対に、そう」
「え?まじのまじ?だって、声聞いたの10年以上前でしょ?」
「そうだけど、覚えてるもん、絶対にそうだって」
きよかが舞台に立つなにがしさんをマジマジと見ているのが横目に見える。

「どうしよう、ねえ、どうしようどうしよう」
焦って声が震える。

興奮して声が大きくなってしまったからか、隣の人が軽く咳払いをしたのを聞いて正気に戻った。その場で一度、深呼吸をする。

なんたらなにがしさん、もとい、とめださんが今日のライブの趣旨を説明している。その声が聞こえるたびに、ひらりは、絶対にそうだ。と胸に手を当てた。心臓の音がうるさくて、とめださんの顔をまともに見ることが出来ない。

会いたいと願い続けた人がどんな風貌でどんな顔でどんな表情なのか確かめたかったけれど、緊張とためらいで耳が熱くなって、前髪の隙間からチラチラと舞台を見るのが精一杯だった。




公演が終わった後、会場の目の前の道でチケットを手売りしているとめださんをきよかが見つけて、声をかけてくれた。ひらりはその間、きよかの服の裾をぎゅっと握っていることしか出来なかった。

「あの〜、とめださんですか?」
「え、ああ、え、はい」
と、とめださんが不思議そうに首を傾げる。本名で呼ばれることが少ないのかもしれない。

とめださんはきよかをじっと見たあとスイッチを入れたように「今日、3列目で見てくれてましたよね?」と、にこやかな顔で言った。
とめださんがチラチラと後ろを覗き込んでいるのに気が付いたきよかに前に押し出される。

とめださんが真ん前にいるのだと考えただけで、ひい、と声が出そうになるのを口を塞いで抑えた。止まっているだけなのに息が上がる。
声を出すと震えそうだし、おまけに涙が溢れそうだった。なんの涙かはひらり自身にも分からない。

「あの、トメクマティックさん、ですよね…?」
と、震える手を握りしめて声を絞り出す。
とめださんは一瞬驚いたようにのけ反って、「ああ、ええと、うん」と言った。

「ずっと……会いたかったです」
「え、ええと、その名前はどこで?」


聞けば、トメクマティックはたった9ヶ月で解散したそうで、ひらりが覚えていたあの漫才は世に出ていない幻のものだったらしい。
下北沢はとめださんの相方のくるめさんの自宅だったらしく、くるめさんはトメクマティックを解散したときに芸人を辞めてしまったと聞いた。

とめださんも、きよかも話終わるまで黙って聞いていてくれて、それが余計にひらりの早口を助長させた。

「あ、あの、なので、ずっとお会いしたかったです。今日は会えて嬉しかったです」

「あ、うん、ええと、、ありがとう、トメクマティックを覚えててくれて」

気まずそうにそれだけ言うと、とめださんはスタッフの人に呼ばれて劇場に戻っていった。





劇場を出てからどのくらいぼーっとしていたか分からない。気が付いたら公園のベンチに座っていて、「どこら辺が、無理そ?」と、きよかに聞かれたのを境においおいと涙が出た。

「ちょっと、全部無理っぽい」
「おけおけ」

しばらく小さい子どもみたいに、ヒグヒグ言いながら泣いた。おばあちゃんの前でもきよかの前でも、もう何年もママの話をしたことなんてなかったのに。あのときの情景も、やるさなさも、怖さも不安も夜の暗さも寒さを思い出してしまって、それと同時にトメクマティックの声を、漫才を、面白くて笑ってしまうのを必死に堪えたことを、あの夜のことを思い出した。

ひとつはもう二度と思い出したくない記憶で、ひとつは絶対に忘れたくない記憶だった。




きよかが買ってきてくれたカフェラテを飲みながら「なんかさ、ちょっとダサかったね、とめださん」と言うと、「命の恩人なんじゃないんかい」ときよかが笑った。

「でも会えてよかった。ありがとね、ついてきてくれて」
「いやあ、まじおもろかったね、プロのお笑いライブ」

西陽に照らされた公園の木々が揺れていて、夏の風が心地よかった。

「また行こうよ、ヒーローの名前も分かったことだし。なんだっけ?ドロップアイ……ドロップアイらくだん?」
と、きよかが今日のフライヤーを見ながらしかめっ面で言う。

「ったく、なんちゅう難しい芸名つけとんねん」
「だよね、見つけられるわけないじゃんね」
「それな」
そう言ってきよかが横でスマホをいじり始めたので、ああ、たぶんとめださんのSNSを探しているのだな、と分かった。

高速バスが出る時間までまだ3時間ほどある。きよかと美味しいものを食べてから帰りたいな、とぼんやり思う。

「あ、そだ、私さ、行ってみたかったトルコアイスのお店があるんだけど、帰る前に寄っていい?」
と、思い出したようにきよかが立ち上がった。

「ダメな理由ある?」
「それな」

泣き疲れたからか頭がぼんやりしているけど、どこか晴れやかな気持ちだった。溜まっていたものが流れ出たようで清々しい。

きよかが見つけてくれたとめださんのSNSでやっと本人の顔をしっかり見ることが出来た。年相応の本当に普通のお兄さん、いや、おじさんという風貌をしていて、とても安心した。

ひらりには、その普通の顔をしたおじさんが誰よりも信頼出来るヒーローに見えて、また会いに行ってみたいなと素直に思った。今日のことを覚えてくれているかは分からないけれど、それでもいい。

大丈夫だ、私が覚えている。
トメクマティックというコンビを、あの漫才を、あの声を、ひらりは絶対に忘れないと心に誓った。



( -side ひらり- fin )


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