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【小説】70's groove -前篇-


平穏か、激動か、と言われれば、平穏な人生だと思う。幸福か、退屈か、と言われれば、少しだけ退屈が勝つ。

私の人生はまるで平凡の象徴のようだった。今までは。

この歳になって、これほどまでに何かに熱中するなんて、私自身 思ってもみなかったことだ。

私の毎日は規則正しい。朝6時45分に起きて、白米と卵焼きを食べる。それから自分が昼に食べる用の弁当を作って、と言っても、ほとんどが前の晩の残り物だが。とにかくそれを弁当箱に詰める。

駅は家から歩いて十分、電車に乗って4駅、毎日8時15分ちょうどに出勤し、17時45分に退勤する。

特許申請の事務仕事は単調で、慣れれば難しいことはない。この年になると上司から怒鳴られることもなければ、部下に生意気な口を聞かれることもない。というか、そもそも、会社で挨拶以外ひとと話すことがほとんどない。部下の有給申請ですら社内システムで通知がきたものを許可するだけだ。

三十代の頃、八年間クレーム対応の部署にいたおかげで、今でも課長職プラスアルファの給与をもらうことが出来ている。おそらく、待遇は良い。

「吉田さん、それってめっちゃ幸せ者じゃないですか〜」
馴染みの居酒屋の一番奥の席、壁にもたれながら、幸田くんがにこにこして言った。頬が少し赤い。ビール2杯に、ハイボール3杯、それから日本酒を半合、飲み終わるところだった。

「だって、すてきな奥さんがいて〜、お子さんがふたりでしょ?お子さんはそれぞれ巣立っていって、で、役職は課長、いまだに毎日愛妻弁当、、はあ、、もう幸せの象徴みたいな家じゃないですか〜」

幸田くんが、くだを巻くように頭をくしゃくしゃとかき乱した。私も日本酒に口をつける。一息に飲むには甘い。

「そうかな」
幸田くんが羨む愛妻弁当を毎日作っているのは私自身なのだが、ややこしいので黙っておいた。

「羨ましいっすよ〜、俺も結婚したいっす」
「本当に?」
「いや、すみません。実際はちょっと迷いますね、、今の自由も〜、手放せないっ!」
「はは、そうだろうなと思ったよ」
幸田くんが、ぶんぶんと頭を振った。彼とは今年で六年の付き合いになるから分かる。これはそろそろ記憶がなくなるという合図だ。たぶん彼は今の会話を覚えていない。

「そろそろ帰ろうか」
「え〜、もうですか〜、もうちょっと飲みましょうよ〜」
うなだれる幸田くんを横目にお会計を済ます。こうなるとタクシーに放り込むほうが早い。

幸田くんを見送ったあとに、ぽつぽつ歩きながら駅へ向かう。この数分の散歩が案外一番好きな時間だったりする。時間はまだ浅い、金曜日の夜だ。

たしかにはたから見れば私は、幸せの象徴の真ん中にいるのかもしれないな、などど月を見上げながらぼんやりと思った。
妻がいて、子どもがふたり社会人になって手が離れ、埼玉のはずれに小さいながらも戸建てをもっていて、役職は課長だ。
一般的にひとが欲しいと思っているものや環境を手にしているのかもしれない。

だけど、私はいつも、どこか少し、物足りなさを感じていた。

駅の近くまでくるとぼやけた灯りの下、ロータリーの外れで若者が歌を歌っていた。四人組、スタンダードな今どきのロックバンドのようだ。

1曲だけ聴いて帰ろうかな、と足を止める。最近の子に多い甘い歌声で、これが、いわゆるエモい歌詞だろう、ということだけは分かる。

「みなさん、こんばんは。LEE byです。え〜、実は今日新曲を持ってきました」
ボーカルの青年が息が上がったまま、話し始めた。センターで分けた前髪が汗でくたっている。まばらな拍手が鳴っていた。

「三年前、僕たちはコロナで色んなものを失いました。辛かった、しんどかった、何も出来なくて、、本当に苦しかった」
カシャシャンと小さくシンバルが鳴る。その音に釣られて私の胸も少しだけ鳴った気がした。

「でも続くじゃないですか、人生は。つまづいても転んでも怖くても、それでも続くじゃないですか。だから僕はいつだって今がスタートだと思って生きるしかない、そう思った」
青年がちらりと客側を見る。一瞬だけ目が合った気がした。

「そんなときに作った歌です。誰かの背中を押せる曲になればいいなと思ってます。聴いてください、はじまり」

酔い覚ましのコーヒーが沁みた。いつだって、今がはじまり。そうかもしれない。

今思えば、平凡な私の人生にはじめて音が鳴ったのは、たしかにこの夜だった。

(続く)

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