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私たちは他人からこう見えている。

みなさんは、いま何歳だろうか?

18歳の方もいれば、22歳の方もいるだろうし、40歳を超えている方もいるかもしれない。この記事を書いている私はといえば、現在32歳だ。

32歳。

世間一般でいうと、32歳というのは、おじさんだろうか、それともお兄さんだろうか。どっちだろう。

友人の子どもや自分の姪っ子たちと接していると、「ほら、あのおじさんのところに行っておいで」のようにおじさんという呼称で呼ばれることが増えた。


心の中は永遠に14歳から進化していない気がしているので、おじさんと呼ばれることに若干の抵抗感はあったが、いつの間にかそれを受け入れている自分がいることに気づく。

「おじさんはね、うんこを漏らしたことがあるんだよ」

「おれはどうしようもないおじさんだからなぁ」

「おじさんに頼んでくれれば、なんだって買ってあげるよ」

おじさん、おじさん、おじさん、おじさん。


私はおじさんか? あ?

いいや、断じておじさんではない!




20代前半のころから現在にかけて、
初対面の人にはこう言われることが多かった。

「え? 21歳なんですか? 落ち着いているので28歳くらいかと思ってました」
「え? まだ26歳なの? まるで33歳のような貫禄があるね」
「え、32歳? 私と同い年じゃないですか! 36歳くらいかな、と思ってました。落ち着いてらっしゃるので」

私は札幌というクソ田舎に身を置く人間で、大学を除籍になっているようなクズだが、初対面の方からは「落ち着き」「貫禄」という表現がよく出てくる。

そのたびに私は、ムニムニした自尊心が刺激されて、鼻の穴を嬉しそうに膨らませるものである。

ここで重要なのは、この表現から漂ってくる私の人物像は、おじさん的ではなさそうだ、という点である。

こういう表現は、おじさんではなく、もっとこうスタイリッシュな大人の男性、すなわちお兄さん的な人に対して用いられるものである。


うんうん、私はきっとお兄さん的に見えてるに違いない。

そりゃあ子どもたちにとってはおじさんだからおじさんだけど、それは概念的な話であって、決して外見的なことを指していないはずだよね、そうだよね、ハム太郎。



妻とWBCを見ていた。

妻はすっかり大谷選手のファンになっちゃって、ギャーギャー言ってるんだけど、試合中にどんどん日本人選手が出てくる。侍JAPANだ。


32歳の選手が出てきた。
私と同い年である。

実況は言う。

「さぁ、ベテランの意地を見せられるか!」



妻は言う。

「あ、ほらほら32歳。同い年だよこの選手。あなたも他人からはこういう風に見られてるんだからね」

テレビにはおじさんが映っていた。

え、こんなにおじさんなの、ワイ。

一人で傷ついていると、妻はさらに、

「この前うちのお母さんが言っててさ、66歳の一般人がバラエティー番組でインタビューされてたんだって」
ほうほう
「そしたら、お母さん『あぁ、私はこの人と同い年だから、世間からはこんなおばあちゃんに見られてるのね』って言ってたよ」
ずーーーん



悟った。


そうか、自分の顔は鏡でしか見ることができない。けれど、1日1日とたしかに細胞は死んで老けていっているのだ。

私はカスみたいなおじさんぽい顔を晒しながら、誰かと会っているんだなぁ、つらいなぁ。恥ずかしいなぁ。

もう概念的にも外見的にも、私は立派なおじさんなんだな、トホホ。



だから、この記事で何を言いたいかというと、こう。



若い男女よ、まだ若いうちに、その若さとエネルギーを最大限爆発させて、傍若無人に死ぬほど恋愛したまえ。時は残酷ぞ。いまだ、いま。今いけ。


ではまた明日!

<あとがき>
年齢はラベルに過ぎません。いい齢の重ね方をしたいな、と思ってはいましたが、無理そうです。あの野球選手を見てそう悟りました。逆になぜ今まで自分をお兄さんだと思い込んでいたのか、そのあたりが自尊心と虚栄心の高さを物語っていそうでお恥ずかしい。今日もありがとうございました。

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