もっと20代を捨てられたかもしれない。
20代は「捨てるための時間」だとあとから気づく。
ふり返ると、私はなんだかんだで「バランス」を重視していたように思う。仕事もほどほど、友だちとの遊びもほどよく、適度な運動をして健康にも気を遣う。まるで全ての分野で平均点を狙ったような生き方。
それは悪いことではない。
もちろん、どちらかというと人よりもほんの少しだけ、仕事に一心不乱に取り組んだ自負がないわけではないけれど、「がむしゃらにがんばる」ことをどこかで避けてきた自分にふと寂しさを感じる。あの時もっと、自分を、すべてを犠牲にしてでも何かに本気で挑戦していたら。
違う未来が見えていたのかもしれないズラ。
ここで思い出すのは、メルヴィルだ。彼が名作『白鯨』を世に出したのは30代の半ばだった。彼も最初は大きな成功を手にできず、生活は困窮していたと聞く。
実際『白鯨』は出版当初はまったく、全然評価されなかった。それでもメルヴィルは書くことをやめず、厳しい時代を生き抜いた。彼のように、失敗や挫折に直面しても、何かに情熱を注ぎ続ける姿には、深い敬意を抱かざるを得ない。
私はどうだろう?
20代をもっと大胆に捨て、がむしゃらに何かに取り組んでいたら、違う何かを掴んでいたかもしれない。そうやってまた、さみしくなる。
とはいえ何歳から始めても遅いということはない。33歳、もう少しで34歳になる私も、まだ人生を達観するには早すぎる。早すぎるのだ。
ジョージ・エリオットも言っていた。
「自分がなるべきだった人間になるのに、遅すぎることはない」
エリオットは、40代で『ミドルマーチ』という傑作を書き上げ、文学の歴史に名を残した。彼女もまた、自分の人生のどこかで「捨てる」ことができたのだろう。私も、これから40代になったときに「30代は文句のつけようがない」と思えるような、そういうふんばりをしたい。
いま全力で何かに打ち込んでいる人たちに強い憧れを感じる。そこに痺れる憧れる。
彼らは疲れていても、無理をしてでも、次に進む力を持っている。推進力、積んでるエンジン。そのエンジンを上手に使う技術。がんばることが、結果として自分を高めると知っているのだ。
もちろん、がんばることが常に美徳ではない。
しかし、結果を出している人を見ると、その努力がどれほど意味を持つかは歴然としている。歴然としているのだ。
偉人たちがそうであったように、私たちもまた、自分の人生のある一部を捨てることで、別の何かを得ることができる。
努力し続ける人々に憧れを抱きつつ、私も今度こそ、何かに挑戦する日が来る。いまもう来ている。いつか「もう捨てるものがないほどにやり切った」と思える自分に出会いたい。
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