見出し画像

敗者復活戦に勝つ!~清少納言と樋口一葉の場合

「敗者復活戦に勝つ」とは

こんにちは、ぱんだごろごろです。
以前、【試験に落ちてしまった!――こんな時に心を落ち着かせるには】の中で、私は、「精霊のお導き」について、こんな風に書きました。
もし志望校に落ちた時には、精霊が、「あなたにはその志望校よりも、受かった学校の方が合っていますよ」と教え導いてくれたのだ、と思えばいいと。
つまり、当時はわかっていなかっただけで、第二志望校の方が、実はあなたにとってはぴったりの本命校だった、ということです。

これからお話ししようと思っている、「敗者復活戦に勝つ」も、この「仕方なく第二希望で行った道が、実は、本命だった」という人たちのお話です。
人は、自分では、なかなか、自分の才能がどこにあるのかわからないものです。
自分で得意だ、と思っていることとは、違うところに、あなたの本当の才能が眠っているかもしれません。

清少納言と樋口一葉

実例として、清少納言と樋口一葉を選んできました。
この両者、ちょっと、時代が離れすぎている(900年くらい)のですが、そこのところは、ご容赦下さい。
共通点としては、和歌(短歌)に堪能であること。
周囲から、才媛として、認識されていたこと。
そして、結果的には、散文(詩や和歌、俳句等ではない、普通の文章のこと)の作品で、揺るぎない名声を得たこと。

清少納言の場合

清少納言は、有名な歌詠みの家に生まれています。
曾祖父の清原深養父と、父の清原元輔は、いずれも著名な歌人です。
特に、父の元輔は、数々の勅撰集(天皇の命令によって、作られた和歌集)の中に、その和歌が多く(計106首)選ばれています。
「梨壺の五人」と呼ばれ「後撰和歌集」では、選者として和歌を選ぶという、歌の道では、スーパーエリートなお父さんでした。

清少納言が、中宮定子のもとに、女房(侍女兼家庭教師)としてお仕えすることになったのも、定子周辺の人が、元輔の評判から、「和歌に強い人も欲しいわね。たしか、あの元輔に娘がいたわ。」などと、清少納言に目を付けたからではないでしょうか。

ただ、実際には、「枕草子」を読んでもわかるように、彼女の活躍の場は、和歌だけではありませんでした。
清少納言の強みは、歌の家に生まれた者が持つ、人並み以上の学識、教養を、場所や相手に合わせて自由自在に使いこなす、その総合力、瞬発力だったのではないでしょうか。

歌を詠みたくなかった清少納言

清少納言は、「五月の御精進のほど」から始まる章段の中で、定子に向かって、「もう、歌は詠みたくありません」と訴えています
下手な歌を詠んで、深養父や元輔の名を汚すわけにはいかない、というプレッシャーに疲れてしまったのでしょう。
定子からもお許しを得て、ほっとしている彼女を見ていると、それまで清少納言が感じてきた重圧は、いかばかりかと思わされます。

ここで間違えてはいけないのは、清少納言が、決して和歌が下手なわけではなかった、ということです。
父には及びませんが、勅撰集には14首の歌が収録されていますし、皆様ご存じのように、百人一首にも、「夜をこめて」の歌が選ばれています。
中古三十六歌仙の一人であり、「清少納言集」という歌を集めた家集もあります。

和歌から随筆へ――敗者復活戦の勝利

それなのに、ひいお祖父さんやお父さんに比べると、自分は…、という、ある種の劣等感のような気持ちがあったのでしょう。
結局、清少納言は、歌の世界ではなく、随筆の世界で、名をあらわし、千年経った今でも、清少納言の「枕草子」と言えば、知らぬ人はいない程の名著を作り上げました。
和歌では、父に敵わない、と悩んだ彼女でしたが、自分の強みを見つけ、磨いていくうちに、「自分には、別の道がある!」と気付いたのでしょう。
歌では超一流にはなれない、と悟った彼女は、敗者復活戦に回ります。
物尽くし、随想文、回想文等を自在に操り、在りし日の定子の姿が匂い立つかのような、当時の後宮サロン文化の粋を集めた、「枕草子」を書き上げることにより、清少納言は、随筆の世界で、見事優勝したのです。

樋口一葉の場合

樋口一葉は、明治五年生まれ。
幼少の頃から、読書が好きで、勉強好き、十一才の時に、女性が学問を長く続けるのは、将来のためによくない、という母の意見で、学校をやめますが、その後も毎晩、本を読み、和歌の勉強を続けます。
そんな娘の姿を見た父が、一葉を、「萩の舎」という歌塾に入門させてくれたのが、明治十九年、一葉が十四才の時のことでした。

「萩の舎」時代

中島歌子の歌塾「萩の舎」は、当時全盛時代で、千人以上の門下生の中には、華族初め、上流階級の女性が多くいました。
その中で、一葉は、自分のことを「平民組」と呼び、和歌の他にも、「源氏物語」や「枕草子」「徒然草」などの古典を学んで行きます。
一葉は、「萩の舎」の中でも、頭角をあらわし、四才上の、田辺花圃と共に、「萩の舎」の二才媛と見なされるようになります。
一葉の初期の日記には、入門して次の年の歌会で、最高点を取ったことが記されています。
一葉が何よりも打ち込んでいたのは、和歌なのでした。

小説家へ

一葉が十七才の時、父の則義が、借金を残して、病死します。
そこから生活が傾き、一葉は、生活のために、小説を書くことを思い立ちます。
田辺(三宅)花圃が、小説を発表して、まとまったお金を手にした、ということが、「萩の舎」で評判になっていたからでした。
本来、彼女の希望は、歌塾の師匠となることでした。
小説を書くのは、生活の手段でしかありませんでした。

小説の師、半井桃水との出会いと別れののち、一葉は、「うもれ木」を発表、はじめて原稿料をもらいましたが、額が少なかったため、それでも生活は苦しく、その後、駄菓子屋を開いたり、のちには、相場師になろうとしたこともあったようです。

奇跡の十四ヶ月

駄菓子屋をやめ、丸山福山町に転居してから、明治二十七年十二月に「大つごもり」を発表、翌年には、名作「たけくらべ」、「にごりえ」「十三夜」などを次々執筆、発表し、一葉の名声は高まって行きます。
この、「大つごもり」から「裏紫」(明治二十九年二月)にかけての期間は、小説家、樋口一葉にとって、「奇跡の十四ヶ月」と言われています。
明治二十九年十一月、一葉は、肺結核のため、二十四才で亡くなりました。

和歌と小説――敗者復活戦の勝利

一葉は、その短い生涯に、3760余首の和歌を詠んでいます。
出来るものなら、一葉は、自分の歌塾を開いて、そこの師匠になりたかったのでしょう。
「萩の舎」の中島歌子の後継者となることを夢見ていたことも、あったかと思われます。けれど、それはどうにも手に入らない。
自分の手に入るのは、何か。
「奇跡の十四カ月」間、書き続け、一葉が手に入れたのは、小説家としての名声でした。
和歌で食べて行けない一葉は、敗者復活戦に回らざるを得なかったのですが、そこで、見事に、勝利を挙げたのです。

まとめます。

望み続けたことが叶わなくて、結局別の道に進んだところ、実はその道が本命だった、ということは、よくあります。
第一志望の学校や就職先に不合格になってしまった時は、そのことを思い出して下さい。
受かった学校や就職先が、あなたの行くべき道なのです。
その人の能力が本当はどこにあるのか、なかなか本人にはわからないものです。
今回は、清少納言と樋口一葉を例に取って、ご説明しました。
あなたのお役に立てば幸いです。

サポート頂ければ光栄です!記事を充実させるための活動費, 書籍代や取材のための交通費として使いたいと思います。