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2020年を振り返って~note、ブログへの挑戦

こんにちは、ぱんだごろごろです。
今年は、思いも寄らぬことが次々と起きた年でした。
今日は、12月30日、明日は大晦日です。
今年の出来事を、ざっと振り返ってみます。

今年の初めの頃は、私の関心事は、もっぱら異動先のことでした。
15年以上続けた仕事の勤務先が、今までより規模の大きい事業所に変わることが、決定していたのです。
今さら、違う勤務先に異同して、上手くやっていけるものかどうか、不安はありましたが、異動に際しての条件は、客観的に見ても、良いものだったため、気持ちは前向きでした。

二人揃って癌を患っている両親がいたため、当時、私は、親の手術や入院の度に、別々の病院に呼び出される日々を送っていました。
主治医の都合に合わせるため、勤務先に無理を聞いてもらうことも度々でした。
異動先でも、両親の病気に関しての休日取得は、柔軟に対処してくれる、との確約を、面談の際に得ていたので、それが何よりありがたい点でした。

異動の日は、3月1日と決まったので、異動前の有給休暇消化と、両親がいよいよ危なくなる前に、との二つ理由から、2月の初めに、ハワイへ家族旅行に出掛けました。
その頃には、中国の武漢から始まった肺炎が、徐々に世界へと広まっているというニュースは聞こえてきましたが、まだどこか遠い世界の出来事のように思っていました。

ハワイ旅行はとても楽しく、帰国した私は、3月1日から、新しい職場で、緊張感をもって、働き始めました。
色々と困惑することや悩むこともありましたが、徐々に慣れて行っていた頃。

新型コロナウィルス感染症――covid19。
世界も日本も振り回されました。
もちろん、私も私の家族も振り回されました。

夫はテレワークになり、息子の大学も同じく。
病院では、患者との面会は中止となり、両親の様子もわかりにくくなりました。
主治医の先生からの説明は定期的にありましたが、両親のお見舞いに行けなくなったことで、どうしても両親のことを考える時間は減って行きました。

そして、5月10日に、父の危篤の知らせを受けた私は、職場を早退して病院へと急ぎ、一旦は持ち堪えた父を残して、帰宅したものの、翌日の早朝には、兄から、臨終を知らせる電話を受けたのでした。
世の中では、お通夜もなしに、家族だけで葬儀をする様式が、新しい葬儀の形態になりつつありました。

母は、父が亡くなった時には、別の病院に入院中でした。
父の死をどのように知らせるか、医師とも相談して、療養病院に転院するタイミングで、兄から母に話してもらいましたが、その後も、忘れてしまうのか、「パパはどうして来ないの」などと言っては、周りをギョッとさせていました。

5月に、父が亡くなり、6月に、私は新しい自分を探す活動を始めました。
2カ月経った時には、ブログを始めることを決意していました。
8月から、1ヶ月間、ヒトデさんやマナブさんの動画(ユーチューブ)でブログのことを学びました
ブログを始めるきっかけを作って下さった方から言われた通り、20本の記事を書き溜めました。

そして、9月12日、noteで記事を公開し始めたのです。

10月8日、父のあとを追うように、母が亡くなりました。
父の四十九日や、初盆、百箇日などの法要が続く中に、母の葬儀も組み込まれて行きました。
何回、喪服を着たかしら、と、ぼんやり思いました。

そんな中でも、仕事は否応なくありますし、noteも、始めたからには、一年でも二年でも続けたいと思っています。

noteを始めて、三ヶ月以上が経ちました。
何とか、一日おきのペースで、記事を公開していきたい、と思っていましたが、12月に入って、身体がままならなくなって来ました。
目が痛むのです。

無理をしない選択をしました。
今日は、頭、目、首、肩、腰の疲れに効くというマッサージに行って来ました。
「ガチガチですね」と言われ、すごく痛いマッサージだったのですが、終わる頃には、すっきりした気分になれました。
もう若くないのだから、勢いのままに突っ走るのは無理ですね。
私のロールモデル、オリヴァ夫人だったら、どうするかしら?
そんなことも考えながら、来年も歩んで行きたいと思っております。

どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

まとめます。
今年は、両親との別れと、noteを始めたことの二つが、私にとっての大きな出来事でした(背景には、常に新型コロナウィルスの影がちらついていました)。
無理をしないこと
今回、それを学んだ、ぱんだごろごろのブログへの挑戦は、これからも続きます。
世のすべての女性の幸せを願って、発信し続けて参ります。

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