見出し画像

母にしてもらったこと

こんにちは、ぱんだごろごろです。

先日、私は、娘の結婚式に着るドレスを買って来ました。

そこで思い出したのが、実家の母のこと。

母のこと


私が結婚した時、母は51歳。

今の私より、10歳若い、花嫁の母でした。

昔、母は、短大を卒業して、

その同じ年の5月には、

父と結婚をした、と言っていたので、

20歳で結婚したことになります。


昔のことですから、むろん、お見合い結婚です。

父は母より、4歳年上ですから、24歳。

大学の経済学部を卒業して、就職して、数年で、家庭を持ったんですね。

今の感覚から言えば、早すぎるようにも思えますが、

当時は、それが普通だったのかもしれません。

結局、何だかんだあっても、

共白髪になるまで連れ添って、

共に癌にかかり、

二人とも病院で、人生の最期を迎えました。

母と私


正直、私は、母とはうまが合わない方だったと思います。

亡くなったあとでも、悲しいと思ったことはありませんでした。

母は、思ったように、人生を生きたのだから、満足だったろう、と思った程度です。

人生の初まりから比べれば、晩年は没落して、その点は気の毒でしたが、

何と言っても、我が儘で、自分が第一、人生のすべてが見栄のためにあり、

気持ちが良いほど、自己を肯定して、他者からの批判を受け入れない人でしたから。


他人の噂話を散々しゃべったあとに、

私は、口が固いから、誰にもしゃべらないと皆知っていて、何でも私に打ち明けに来るのよ、

と言ったのには、恐れ入りました。

周りの人たちは、母の性格をよく知っていて、扱いが上手かった、ということなのでしょうね。

若かった私は、母の言動が、恥ずかしくてたまらず、

母の得意顔と、自分が頭がいいと思い込んでいる、その誤謬に耐えることができませんでした。

ただ、反駁したところで、おまえが間違っている、と頭ごなしに言われるだけなので、

私は、次第に、自分の本音は隠し、母とは上辺だけの会話に留めるようになりました。


そんな頃に、私は、結婚して、家を離れることになったのです。


母と娘(孫)


それまでの母との関係を、一気に風通しのいいものにしてくれたのは、娘の存在でした。

私に娘が生まれると、

母は、この初孫に夢中になり、驚くほど可愛がってくれたのです。

娘は、当然、母に懐きました。

私は、母のことを、子供の頃から、ずっと、「ママ」と呼んでいましたが、

私がそう呼ぶのを聞いていた娘も、母のことを、「ママ」と呼ぶようになりました。

このことが、いっそう母を喜ばせたのでした。

如才ない娘は、私の両親を、「パパ、ママ」と呼び、

私たちのことは、教えた通り、「お父さん、お母さん」と呼んだのです。


娘が母に懐き、母が娘の面倒を見てくれることで、

しぜんに私も、母に対するわだかまりが薄れていきました。

母からされたこと、言われたことを恨みに思う気持ちが、まったくなくなったわけではありませんが、

自分が年齢を重ねたことで、

母からしてもらったことに、目を向けるようになっていったのです。


母がしてくれたこと①


ひとというものは、自分が他人から「された」ことは、いつまでも覚えているのに、

「してもらった」ことは、つい忘れがちです。

親だからするのは当然、という見方は外して、

今まで、母が私にしてくれたことで、自分が一番感謝していることは何だろう、と考えました。

私の中で出た答えは、

「母校の中高一貫校に入れてくれたこと」

でした。

突き詰めて考えていくと、自分のものの考え方も価値観も、すべて、大学へ行く前の、この時期に作り上げられたものでした。

あの学校に行ったからこそ、今の自分がある。

そう思うと、この学校を選び、中学受験をさせてくれた母には、感謝してもしきれないな、と思えたのです。

客観的に考えれば、両親とも、私立中高の出身で、

兄も中学受験をしましたから、

母だけの意向ではなかったのでしょうが、

今でも愛着のある母校や、付き合いの続いている友人達のことを思うと、

感謝の気持ちが、湧き上がってくるのです。


母がしてくれたこと②


もう一つ、私が母に感謝していることがあります。

それは、小学生のとき、

「運動会を休ませてくれたこと」

です。

私は、体育が苦手で、小学校の高学年になってからは、通知表で、

「1」をもらったこともあるほどの、運動音痴でした。

通常、実技のある科目で、「1」を取るのは非常に珍しいことでしょう。

授業を休むこともなく、真面目に課題に取り組んでいるのですから。

が、それでも、先生が「1」を付けざるを得なかった、と言うところから、

私の体育の能力のほどはおわかり頂けることと思います。

飛び箱も、鉄棒も、前転も、50メートル走も、倒立も、私には、できませんでした。

普通に走っているつもりでしたが、

走り方が変だと友だちから、からかわれ、

苦痛でした。

ダンスも苦手で、まともに踊れるのは盆踊りくらい、

運動会とは、私にとっては、大勢の人の前で、恥をさらす場なのでした。

毎年、我慢して、運動会に参加していましたが、

5年生か6年生の時、とうとう、

「そんなに嫌なら、運動会に行かなくていいよ」

と、母が言ってくれたのです。

本当に、嬉しかった。

あんなに嬉しかったことは、そうありませんでした。

あの時の母の決断には、今でも感謝しています。

そのことがあって、私は、自分の子供たちが、どうしても嫌だ、ということは、

無理にはさせずに来ました。

それで良かったと思っています。

画像1

私は、母とは、うまが合いませんでしたが、それでも、感謝していることがあります。

それは、「母校の中高一貫校に入れてくれたこと」

および、「運動会を休ませてくれたこと」

です。

今年の三回忌には、あらためてお礼を言ってこようと思っています。

画像3

タイトル画像は、黒猫T郎さんからお借りしました。
ありがとうございました。

画像2

今日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。

あなたがお母様に感謝していることは何ですか?

ありすぎて、思い付かない、という方もいらっしゃるでしょうね。


良かったら、スキ、コメント、フォローをお願いいたします。


この記事が参加している募集

子どもに教えられたこと

サポート頂ければ光栄です!記事を充実させるための活動費, 書籍代や取材のための交通費として使いたいと思います。