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【き・ごと・はな・ごと(第35回)】春を寿く―スイセン迷走曲

雪解けの田沢湖畔をサイクリングしたことがある。生まれて初めて雪国の冬を経験し、待ちに待った春を迎えた年のことだった。盛岡の街から2時間半バスに揺られて運ばれていった湖畔の集落は、ほころび始めの桜の花がやけに白く頼りなげで、寂しげで、柔らかに差し降る太陽が雲まに隠れるたび、ひどく体が凍えた。北の春は遅い。その日、ふと通りすぎた民家の軒下に咲いていた水仙のあざやかさが目に沁みた。湖面も、流木も周囲の山々も、ヨットハーバーも、色彩があった筈なのに、記憶の情景に浮かぶ色は、待ち望む季節への手向けのように起立していたあの水仙の花のいろだけだ。

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何げなしに目に留めたはしりの草花に、季節の移ろいをはっと気付かせてもらえる。そんな趣のある花と人との付き合いが近ごろ、とくに都会ではめっきり減った。アスファルトに埋め尽くされて目に付く草木が少なくなったこともある。それでも出会いはある。いや、かえって、そんな昨今だから出会いにことさらの思いが膨らむのかもしれない。水仙との一会を得たのは去年のことだ。七草が過ぎてまもなく、もよりの駅で電車を待ちながら、なにげなしにホームの前方へと進んでいった。先端は屋根の覆いがない。ホームの後ろは梅林の丘に続く坂から落ちた崖である。風もなく、昼の日差しを受けてのどかである。ふと延ばした視線の先に花が咲いていた。水仙であった。土手の中腹にたった一輪だけ俯いて線路を見下ろしている。白に黄色の嘴をつけた和水仙である。驚いた。同時に、ああ、あれは水仙の葉だったのかと思い出したのだ。

土手の上には桜の裸木が見える。春から夏、そして秋へと土手は茫々と雑草が茂る。

秋口、その中にスクッと数株の彼岸花が咲いていた。これは楽しめた。花が終わり師走の半ばのこと、葛やススキが乱舞していた土手はバリカン仕上げの五分刈りに変身していた。もしやと一瞬心配したが濃緑の葉の塊が点残していて、来年も彼岸花に会えることが確認できてホットしていたのだ。水仙は彼岸花と思い込んでいた株から伸びていた。水仙もヒガンバナ科であり、葉株がそっくりなので花が付くまで分からなかったのだ。高校球児の頭のようにコザッパリしたなかに佇むたった一輪の水仙は、掛け値なしにうつくしかった。が、うつくしい故に無償に寂しげにもみえた。じっと見つめていると悲しい叫びが聞こえてくるようだった。そのとき突然よぎったのは池に写った自分の姿に恋い焦がれて身を投げたというギリシャ神話の美少年ナルシスの物語だ。わたしは、もともと水仙は好きではない。水仙の化身であるというナルシスの神話にも興味を引かれることなどなかった。だが、このときナルシスの寂しい声が心に響いてくるような気がしたのだ。―憧れる対象のない者は不幸である。誰よりも美しいく孤独であるより、適度でいて、自分を越える眩しい相手が沢山いるほうが、本当は幸せなのかも。これを言うと憧れる相手がタクサンでよかったネと家人に笑われた。・・・・花に寄せる人々の思いは、時や場所を越えて普遍なものなのだろう。この日から水仙は、私にとってたんなる花でなく命のある花になった。幸いなことに翌日、そして翌々日と水仙は序々に仲間が増えていった。そして、今年もまたその可憐な花びらを俯かせている。

水仙を100本求めた。私の存在にしては血迷ったと言われかねない行為である。たぶん水仙の放つ魔力に嵌められたのだろう。水仙は香る。そんなことは承知していたが、こんなにも心を捉える香りだとは、ついぞ知らなかった。夕餉の仕出しにスーパへ行き、そこで三束1000円の水仙を買ってきた。数にして20本ばかり。彼女たちが漂わせる香りに魅せられたのだ。薬臭い甘さとでもいうのか、梔子、蓮にも似た魅惑的なかおり。すっかり虜なった私は、再度求めにいったのだが、残念ながら未入荷。それどころか他の近所の花屋を駆けずり回った挙げ句、どこにも見当たらない。花材を扱っていそうな店で、どこにもナイ理由を聞いてみた。水仙の取引は近ごろ100本以上の単位で動くので、どうしても花道のお稽古などである程度まとめた数の予約が入ったときでないと店に並ばないのでしょうとのこと。ということで、気が付いたときは―100本くださいとのことばが、既に口を突いて出てしまった後だった。届いた水仙は、灰を除いた丸掘りの桐火鉢に投げ入れた。

古代、香料のメッカに譬えられたアラビアでは―パンは肉体、水仙は魂の糧―と言われるほどに、その香しさが珍重されたという。自己愛、ナルシストの代名詞になっているナルシスの語源は痺れ、麻痺、昏睡を意味するナルケ。彼岸花と同様、根にアルカロイドを含む水仙は、その愛らしい素振りと裏腹に毒を孕んでいて、春先になるとノビルと間違える事故があるそうだ。だが、科学で証明された毒素よりも怖いのは、甘く官能的な香りがもたらす、目に見えない呪縛の罠そのものかもしれない。

東横線大倉山ホームから
ホーム脇の傾斜に咲くスイセン
三浦半島―山辺の道で
誰が手向けたか。奈良郊外、名のなもない弁天の祠で。
奈良・元興寺で
水仙の名所・南伊豆 爪木崎の群生
歴とした薬草(奈良郡山薬園八幡神社)

文・写真:菅野節子
出典:日本女性新聞―平成12年(2000年)2月15日(火曜日)号

き・ごと・はな・ごと 全48回目録

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